top of page
  • 執筆者の写真CPC K

2023.5.17 箴言 11 章 22~31 節「神様に従い、人を潤す人」

牧師 松矢龍造


人間の価値を決めるのは、その人が地上で、どれだけ集めたかではなく、どれだけ分かつことをしたかということであると、言った賢人がいます。クリスチャン作家の三浦綾子さんも、その賢者の言葉を引用していました。

また主イエス様の教えを受けた、使徒パウロも、受けるよりは、与える方が幸いと言っています。使徒言行録20章35節「あなたがたも、このように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」

そして今日の箴言の御言葉である24節と25節にも言われています。「散らしてなお、加えられる人もあり、締めすぎて欠乏する者もある。気前のよい人は自分も太り、他を潤す人は自分も潤う。」

惜しみなく分かつ人は、報われます。助けられた人が、気前のよい人を忘れないからでもあり、神様が祝福してくださるからでもあります。逆に、物惜しみする人は、友人を作れず、貧しい人に呪われもします。

さらに与えることで、所有物について、正しい考え方を得ることも出来ます。私たちの所有物は、もともと私たちのものではなく、他者を助ける為に、創造主なる神様から委ねられたものです。分かつとき、所有物への執着から自由にされ、隣人を助ける喜びともなり、それは神様に是認されることです。

続いて箴言11章22節23節「豚が鼻に金の輪を飾っている。美しい女に知性が欠けている。神に従う人の望みは常に良い。神に逆らう者の期待は怒りに終る。」ここで「知性」と訳された原文の言葉は、「慎み」「たしなみ」「味」「判断」「決定」「思慮深さ」という意味でもあります。それで「知性が欠けている」とは「浅はかで慎みがない」と訳している聖書もあります。ある方が「女性の魅力は、20代は美貌、30代は向こう意気、40代は財産、50代は知恵、60代は童心」と言っていました。それは、女性の魅力は、美しさだけではないということです。

もし美しさを鼻にかけて、他の人を見下したり、自分の美貌を武器にして、対人関係を切り抜けようとしたりするなら、かえって、それは豚が鼻に金の輪を飾っているように、似合わないものとなります。これを最高不調和と表現する人がいます。当時のイスラエルでは、豚は汚れた動物と考えられていました。当時の女性は、金または銀で出来た4㎝ほどの輪を、鼻柱や鼻に通してつけていました。この美しさだけでなく、能力や財産、教育や才能と置き換えても、同じことが言えます。むしろ、誠実さや思いやり、自己犠牲や優しさ、気品や家事の腕前が加わってこそ、美しさにふさわしいです。

旧約時代において、エジプトの代官ポテファルの妻は、巧みな言葉で、ヨセフを誘惑しようとしました。彼女は、慎みのない美人でした。また士師サムソンを陥れたデリラは、彼をペリシテ人の手に渡した慎みのない美人でした。

そしてイエス様の時代のヘロデヤは、夫のピリポを捨てて、夫の弟であるヘロデ・アンテパスに走り、バプテスマのヨハネの首を要求しました。彼女も、慎みのない美人でした。むしろ賞賛された女性たちは、ペトロの手紙一3章2~4節で言われているような人たちでした。

「神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。

むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。」

26節27節「穀物を売り惜しむ者は民の呪いを買い、供する人の頭上には祝福が与えられる。善を捜し求める人は好意を尋ね求める人。悪を求める者には悪が訪れる。」

商人が、価格をつり上げるために、穀物を売ることを控えることを指すと思われます。不正な商売は、人の怒りを買います。旱魃の時に、価格操作をするのは、現代でも行われることがあります。28節「富に依存する者は倒れる。神に従う人は木の葉のように茂る。」旧約時代、財産は、正しい生き方に対する、神様からの祝福であり、報酬と見なされていました。

しかし富に頼って、自分を守ろうとする者は、最後には苦しむことになります。むしろ正しい生き方への報いとして与えられる幸いな人生の方が、富よりも良いとされます。

29節「家に煩いをもたらす者は風を嗣業とする者。愚か者は知恵ある人の奴隷となる。」家に災いや、家族を悩ますことの一つに、怒りがあります。「一怒一老、一笑一少」という格言があります。一つ怒れば、寿命が縮まり一つ年をとります。逆に一つ笑えば、一つ年が若くなると言われます。

怒りは慎むことが大切です。怒りは、人間関係を壊し、自分自身を偽り、ばか者にし、孤立にします。怒りに関して、次のようなことを覚える必要があります。第一に、裁きは神様がなさるものです。むしろ神様に全く任せる時、人は怒る必要がありません。第二に、自分の罪深さをよく知っているなら、怒ることの浅さが分かります。第三に、こんな罪人である私の為に、怒りを抑えて待っていて下さる、御聖霊なる神様を覚えることです。第四に、キリストの十字架の愛と赦しを覚えることです。第五に、たとえ義憤であっても、日を越えると、罪に変わりやすいです。

怒りは命を縮め、愛は人を生かします。コリントの信徒への手紙一13章4~7節「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」

30節「神に従う人の結ぶ実は命の木となる。知恵ある人は多くの魂をとらえる。」命の木は、神様の祝福の象徴です。

そして神様と律法に従う人は、流れのほとりに植えられた木にたとえられ、祝福を受けます。

詩編1編1~3節「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」

放蕩していた息子は、知恵ある父の腕に抱かれて、魂がとらえられました。またイエス様は、漁師をしていたペトロたちを召し出して、人の魂を、まことの命に導く者に、してゆかれました。マタイによる福音書4章19節「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。」

加えてかつて、日本に宣教に来られたフランシス・ザビエルは「一個の霊魂が救われるためなら、わたくしは、一万度の鞭を受けることも甘んじる」と遺しています。神様に従い、神様の知恵を得る者たちは、多くの魂を、キリストのもとに導く者たちとなります。皆さんが、神様の知恵を得ることは、人々を神様への導く第一歩となってゆきます。

31節「神に従う人がこの地上で報われるというなら、神に逆らう者、罪を犯す者が、報いを受けるのは当然だ。」

この聖句は、新約聖書のペトロの手紙一4章18節に引用されています。前後の聖句を含めますと、次のようになっています。「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。

『正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか』と言われているとおりです。だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。」

神様の御心に従って善を行い、人を潤す。それでも苦しみを受けるなら、主に委ねなさいと言われています。全てのことは、創造主なる神様の御前にあります。そして最後に審判があります。ですから、絶えず、神様を意識し、祈り、対話し、神様からの御言葉と知恵を得て、御聖霊の力を頂いて、お従いすることが肝要です。

富に頼らず、人を潤す為には、愛が必要です。しかし愛は、どこにあるでしょうか。聖書は、ここにあると言っています。ヨハネの手紙一4章10節「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

神様に慈しまれている皆さん、創造主なる神様の真実と、救い主なるイエス様の愛に触れ続けながら、私たちも、ご聖霊の助けと善き力を求め、神様に従い、人を潤す人生を、歩んで行きませんか。

最後に、イ・ドンウォンという方の「善き力に守られて」という内容を受け留めます。「600万人のユダヤ人や、ハンディーキヤップを持った人たちを、死に追いやったヒットラーが、どんな人物であったかを知るためには、彼の幼少期に注目する必要があります。

彼の父は、税関公務員でしたが、職場のストレスを、家に持ち帰って、妻と息子にぶつけたそうです。非常に残忍で、暴力的なうえ、息子に病的レベルの虐待を行いました。そのため、ヒットラーは、戦いを通して、自分の存在を証明しようとする人になりました。

そして、さらに大きな権力欲と自己愛を満足させる戦に没頭しました。自分はドイツを救うことができるという『メシア・コンプレックス』に支配されるようになったのです。そして大衆は、彼にさらに大きな権力を与えました。大衆の心の中にも、自己像の混乱があったのです。

しかしヒットラーに立ち向かって殉教したボンヘッファー牧師は、権力の追求ではなく、敬虔な内面を重要視しました。彼は監獄でも、黙想と祈りに集中し、驚くほどの平安を味わいました。死刑が執行される前に、獄中で最後の年を迎え、彼は一篇の詩を遺しました。題は『善き力に守られて』です。『善き力に、真実に、静けさに囲まれ、守り慰められて、私は現在の日々を、あなた方と共に生きよう。そして、あなた方と共に、新しい年を迎えよう。』ボンヘッファーに臨んだ天の力、天の平和が、今日の私たちにも必要です。悪に負けないために、主が与えてくださる『善き力』を受け取りましょう。」お祈り致します。

閲覧数:1回0件のコメント
bottom of page