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2023.5.21ヨハネによる福音書 20 章 19~23 節「弟子たちに現れた復活の主キリスト」

牧師 松矢龍造


私たちは、日々、平安や平和を必要としています。家族に起こること、学校や会社で起こること、地域や社会で起こる出来事、国や世界で起こる出来事の中で、不安や混乱が生じます。

そんな時、朝において平安が必要ですし、また赦しの平安が必要です。加えて、任務や危険な場に向かって出て行く時の平安も必要です。そして主の命に従って行くときに、神様との平和、隣人との調和が必要となります。復活されたイエス様は、今日の御言葉で二度「あなたがたに平和があるように」と言われています。それほど、私たちには、平安や平和が、必要であることを、神様はご存じです。復活されたキリストは、クリスチャン及び、全ての人々にとって、平安と平和、喜びと希望の源です。

復活されたキリストが二度言われた「平和」とは、どんな平和なのでしょうか。「平和」と訳された原文のギリシア語は、ヘブライ語の「シャローム」に近い言葉です。恵みによる神様と平和や、霊的な平安、また人と人との間の融和や和合や和睦のことでもあります。さらに安全や無事や平安という意味でもあり、他にも、健康や福祉、仕事や学業の祝福も含まれます。

ヘブライ人の挨拶では「シャローム」とよく使います。それは「キリストの救いが豊かに諸君のものであれ」という意味で用いたり、「神様からの祝福がありますように」という意味でも用いたりします。さらに、「義に業によらぬ救い、あるいは、アダムの輝きの回復でもある救いが君たちに」という意味でもあります。加えて、その確実な所有を断言する意味で「シャローム・平安と平和があれ」と挨拶をし合います。私たちも、教会で、「シャローム」という言葉を用いたいものです。

それでは、19節からもう一度。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」復活されたイエス様は、40日間、男性や女性や子どもたち2000人以上の人々に現れました。しかし聖書の御言葉は、特にその時が「週の初めの日」と何度も強調されています。週の初めの日、すなわち日曜日を意味していますが、キリスト教会が、日曜日を「主の日」とし、安息日としている起源がここにあります。初代教会から、この「主の日」である日曜日に、集まって礼拝を守ることは、この復活の主キリストの、週の初め毎の顕現と関係しています。使徒言行録20章7節「週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。」

ヨハネの黙示録にも出てきます。1章10節「ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。」

イエス様が復活された最初の週の初めの日、イエス様の弟子たちは、迫害されることを恐れて、鍵のかかった部屋の中に隠れていました。すなわち自分たちの主を、十字架で失った失意に加えて、弟子たちは、自分たちもやがて逮捕されるかもしれないという恐怖におののき、戸を閉じて、家にこもっていました。

そこへ、イエス様が、来られて、弟子たちの真ん中に立って「あなたがたに平和があるよう

に」言われました。恐れと不安に満ちていた弟子達にとって、最も必要としていたことは、神様からの平安と平和でした。

これは、ヨハネによる福音書14章27節で言われた、イエス様の御言葉の成就でもありました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」

加えて、戸が閉まっていて、鍵がかけられていたのに、復活されたイエス様が、通り抜けることが出来たのは、復活された体が、霊の体であることによって説明されます。かつてイエス様が、金持ちが神の国入ることは、ラクダが針の穴を通るより難しいと言われました。

すなわち自分の肉の力で、神の国入ることは出来ないという意味です。しかし復活されたイエス様の体は、ラクダが針の穴を通れるように、戸が締めて鍵がかかっている部屋に、突然、弟子たちの真ん中に立つことがお出来になりました。同時に、弟子たち食事をすることが出来るという、不思議な永遠の霊の体です。

20節「そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」復活されたイエス様の手と、わき腹には、イエス様と分かる、十字架上でつけられ傷跡がありました。すなわち手あるいは手首には、十字架につけられた太い犬釘と言われる釘が打たれた跡があります。また、わき腹には、十字架の死後に、兵士が、槍を刺した跡が確認できました。

ヨハネによる福音書19章34節「しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。」

弟子たちは、今、この目で見ているイエス様は、確かに十字架につけられた死なれたイエス様であり、このお方が、復活されて、私たちの真ん中におられる。それが、喜びの源となっているのです。ヨハネによる福音書16章22節「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」

長老教会は、伝統的に、聖餐式がない時でも、聖餐卓を出して、これを囲むように礼拝の席を設けて、礼拝を捧げています。それは、礼拝堂に入って来た瞬間、先ず何を覚えるのか。それはここに、この礼拝堂に、私たちの罪の為に、十字架にかかり、死にて葬られ、陰府に下られたイエス様が、復活され、霊的にご臨在されている。そのことを先ず覚えて、礼拝堂に入り、礼拝を捧げます。

コロナ禍で、礼拝堂に集まることが難しくなりましたが、この聖餐卓を見つつ、礼拝堂に来て、ここに霊的にご臨在しておられるキリストを覚えて礼拝を捧げる。そのことを是非、感染状況が収まってきたら、大切にして欲しいと願っております。なお三択で礼拝を捧げることですが、出来れば、この礼拝堂に来て、対面で礼拝を捧げて欲しいのです。

21節「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』」イエス様が、二度目も「あなたがたに平和があるように」と言われたのは、神様からの「平和」を強調する意味と、さらにもう二つの意味があります。

一つは、キリストが、その十字架の血潮によって、神様からの赦しと、愛の関係が与えられたことを、復活によって確証された平和です。そしてもう一つは、このキリストの十字架と復活を宣教する為に派遣された時に、たとえ迫害を受けても、平和があるようにいうことです。

22節「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」天地万物が創造れた時、土から最初の人アダムが創造されました。その際に、ご聖霊の息と霊が、人の穴に抜き入れられて、人は生きる者とされました。創世記2章7節「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」

それが、今度は、復活されたイエス様が、ご聖霊の息と霊をもって与えられます。それを私たちは受けて、霊的に再生されて、真の命を受け、神の国の民とされ、ふさわしい資格と再生を受けます。

ヨハネによる福音書が書かれた時は、AD90年以降ですので、すでにペンテコステ・ご聖霊降臨の後に記された福音書です。ですから、ご聖霊降臨後に預かった後の、初代教会の信仰の告白として、このヨハネによる福音書が書かれました。ですから、もうご聖霊降臨が起きたことが前提となって、この箇所が記されています。

23節「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

ご聖霊が、弟子たちに与えられますと、イエス様の弟子たちは、罪を赦す力と権威が与えられました。そしてその後の、教会にも罪を赦す権限が、イエス様による派遣に基づいて与えられています。ただし、罪を赦す権威を持っておられるのは、神様だけです。

「罪が赦される」あるいは「赦されないまま残る」と二つの受動態が示していることは、神様御自身が罪を赦し、また神様御自身が罪を、そのままになされるということを示しています。

それでは、この弟子たちに委ねられた、罪を赦す力と権威は、何を意味しているのでしょうか。このことは、ペトロに言われたマタイによる福音書の16章にあります、「鍵の権能」と関係があります。それは、主イエス・キリストによる十字架と復活による救いと罪の赦しを、宣教する権能と、信じた者に、罪の赦しを宣言する権能のことです。

そしてキリストの福音を、喜んで聴き、信じる者には、罪の赦しをもたらします。しかしキリストの福音に対して、心をかたくなにして拒否する者には、罪の赦しが与えられないと警告することになります。

すなちわ、心を悔い改めて、神様に向き、キリストを信じる者には、赦しを宣言します。しかし悔い改めず、キリストを拒み続ける者には、神様の憐れみが失われることを警告します。これは教会の二重の任務です。教会すなわち、私達キリスト者に委ねられた宣教と宣言の権能は、神様から来ています。そして復活されたイエス様は、わたしたちに委ねられた働きを、成し遂げる方法を、言葉と態度によって示されました。天の父なる神様が、神の御子なるイエス様を遣わされたように、イエス様は、ご自身の弟子たちや信徒たちを、そして、あなたを遣わされるのです。

この神様の働きを行う為には、ご聖霊の導きと御力が、どうしても、必要不可欠です。自分の肉の力で、神様の働きをしようとしてはなりません。それは弟子達同様、出来ません。逃げ出します。父なる神様と御子なるイエス様は、私たちに、永遠の霊的な命を分け与える力を、お与えになられます。それは、ご聖霊によって、私たちに、神様の御心を行う力を与えられることです。

ゼカリヤ書4章6節「彼は答えて、わたしに言った。『これがゼルバベルに向けられた主の言葉である。武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。』」

救いと、きよい生活と、主の為に奉仕する為には、ご聖霊の助けと導き、力と愛が、誰にでも必要です。あなたも、御聖霊に満たされ、油注ぎを受けて、主の御心を成し遂げて行きませんか。お祈り致します。


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