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  • 執筆者の写真CPC K

2023.5.24&25 ペンテコステ祈祷会

コリントの信徒への手紙一 12章1~31節

「御聖霊の賜物・新生と愛の関係と業」

牧師 松矢龍造


今年も、ペンテコステ祈祷会を持つことが出来ますことを、主に感謝をし、主の御名を讃美致します。今年のペンテコステ祈祷会で、どのようなことを語ればよいでしょうかと、祈り求めておりました。すると「ご聖霊の賜物」について語るように導かれました。

もちろん、一回の祈祷会で、しかも聖書の一か所において、全ての、ご聖霊の賜物について、語ることは出来ません。そこで、導かれたのが、先ほど朗読して頂いた、コリントの信徒への手紙一の 12 章です。

ここには、一節~三節までは、信仰告白の賜物について記されています。そして四節から三〇節までは、奉仕の賜物が展開されています。そして 31 節は、愛の賜物のことが出てきまして、有名な、ご聖霊の愛の賜物のことが記されています 13 章へと繋がっております。承

使徒パウロが、この手紙を出した宛先は、コリントの教会でありました。コリントという街は、港町であり、偶像と不品行が横行している場所でした。またコリント教会には、賜物について混乱が生じておりました。そして、復活に関しても、誤解している人たちがいました。このような背景を持つ、コリントの街にありましたコリント教会に、この手紙を使徒パウロは、送りました。

ですから、霊的な賜物である新生と愛の関係と業について書き送る必要がありました。ここ横浜も港町であり、また教会の宣教と教会形成の為には、どうしても、ご聖霊の賜物を知り、理解し、実践してゆくことが、必要となります。

先ず一節から三節では、信仰告白の賜物について記されています。コリントの街にも、偶像と偶像礼拝が行われていました。偶像とは、神様以外に第一にするものがあれば、全ては偶像になりえます。希望ヶ丘の地には、お寺があり、神社もあります。また創価学会の大きな建物も近くにあります。そして時々、異端であるエホバの証人が、伝道している姿を見かけます。

その中で、キリストを通して示される神こそ、唯一真の神様であり、創造主にして救い主である。そのように信仰の告白が出来ることは、ご聖霊の賜物です。80 億人いると言われる世界人口の中で、キリスト者は、20 億人以上と言われています。世界の中で、4 人に 1 人以上は、クリスチャンです。ですのに、日本では、百人に一人いるかいないかです。

その一パーセントの中で、毎週忠実に主の日の礼拝を守っているのは、四分の一位と言われています。ですから、主日礼拝だけでなく、このペンテコステ祈祷会に出席されている皆さんは、ご聖霊の賜物を受けて、奇跡的に、出席して祈る恵みが与えられている一人ひとりだといえます。

続いて、4 節~30 節までは、奉仕の賜物について展開されています。キリストによって救われたなら、教会を建て上げ、社会において、神様の栄光を現わす為に、奉仕や働きをなす務めが与えられます。それは、ご聖霊によって、奉仕の賜物として、一人ひとりに委ねられています。

その際に、三つの危険があります。一つは、自分に委ねられている賜物を、神様の栄光の為ではなく、自分自身を誇るために用いることです。二つ目は、逆に、自分自身には、キリストの体であり、信者たちの群れの中で、与える賜物は、何もないと思ってしまうことです。そして三つ目は、互いに比較し合って、優越感や劣等感に陥ってしまうことです。

7節には、その危険に対して、答えとなる聖句の一つが記されています。「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」全ての人に、異なった賜物が委ねられており、しかもそれは全体の益の為です。自分を誇る為ではありません。そして御聖霊の賜物は、他者の信者の必要を満たす為に、用いられるべきです。

ご聖霊の賜物には、一致と多様性があります。一致の要素とは、同じ父なる神様を父として祈れること。またキリストにある一つの信仰に導かれていること。そして一つのご聖霊を頂いていることです。さらに言えば、キリストの体として、霊的に一つとされています。加えて、一つのパンと杯を分かち合っている一つの共同体です。

多様性とは、それぞれに異なった奉仕の賜物が委ねられているということです。一見すると、目立つ賜物は、話すことや教える賜物です。逆に、舞台裏の賜物は、助けることや、仕える賜物です。私たち牧師夫婦は、互いに異なった賜物が委ねられています。

妻は、もてなす賜物や、助ける賜物が委ねられています。私は預言とか教えの賜物が委ねられています。天の御国に行ったら、隠れた賜物に、忠実である妻の方が、天に宝を積んでいるだろうと思うことが、しばしばあります。

ある人には、知恵の言葉、ある人には知識の言葉、ある人には、信仰の賜物が委ねられています。信仰の賜物とは、神様の御力に対する、並外れた信頼を持っていることです。ある人には、病気を癒す力が委ねられています。神様の御心にかなっている場合には、奇跡的に神の癒しである神癒が、祈った人に与えられる場合があります。

ある人には、奇跡を行う力、またある人には預言する力。これは将来を預言したり、神様から受けた教えを伝えたりする賜物のことです。そして神様の御心を伝えて、悔い改めと信仰を呼び起こすような働きをする賜物は、出来るだけ大勢の教会員に委ねられることが必要です。

続いて霊を見分ける力とは、その預言者が、神様の霊に本当に動かされて語っているかを見分ける力のことです。そして最後に、異言を語る賜物が記されています。コリントの教会では、特に異言の賜物を委ねられている人が、誇っていたという状況がありました。それ故に、全ての賜物は、神様の御前に平等であることを強調する意図があって、異言を語る賜物が、一番最後に記されています。

異言を語る賜物とは、異言とは原文では「舌」あるいは「言葉」という意味でもあります。今まで習ったことのない言葉で話し、異言を解き明かす人がいなければ、本人も他の人も、その言葉の意味が分からないのに、舌が動く言葉です。さらに言えば、ご聖霊によって心の思いが燃やされて、人には理解できない言葉で、神様に語る賜物のことです。

異言を解き明かす賜物が委ねられている人から聞きますと、ほとんどの異言は、神様への讃美や感謝を語っていると言われます。異言の賜物が委ねられている人は、その祈りをしていると平安が与えられたり、確信が与えられたりするので、個人の信仰が高められます。

これら多様性ある賜物は、ご聖霊のご意志によって、各人に委ねられています。そした他の賜物を敬い、自らに委ねられた賜物に満足すべきです。

さらに人間の肉の目では、恰好が悪かったり、弱く見苦しいと思われたりするものがあります。しかし、これらの賜物が存在する故に、分裂が起こらず、助け合い、仲間づくりや一致を保つ賜物となってゆきます。めぐみ幼児園でも、ハンディーキャンプを持つ子どもがいることで、その子どもたちを通して、助け合ったり、仲間づくりが促進されたりする姿を見ます時、まさにこの御言葉が真実であうと思わされます。

神様は、初代教会には、使徒や預言者をお立てになりました。使徒とは、イエス・キリストについての教えを、世界中に広める為に、神様が選ばれた者たちのことです。その中には、聖書の御言葉を記す為に用いられた人々がいます。また預言者とは、神様の真実な言葉を語ることが出来ました。

さらに教会には、教師が立てられました。教師は、教えの賜物を受けた人であり、他の人が理解できるように、聖書やイエス様の福音について、説明することが出来ました。

そして 31 節には、愛の賜物が展開されています。「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。

そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。」

御聖霊が与えられる賜物の内、全てのキリスト者に言える賜物は、信仰告白の賜物と、自分が神様から受けた賜物を証しするという意味の預言の賜物と、そして最高の賜物である愛の賜物です。愛がなければ、全てに委ねられている賜物は、空しく無益となってしまいます。すなわち賜物を、自分の利益の為に、用いるなら、役に立たなくなってしまいます。

逆に、愛の賜物があれば、全ての賜物は、神様と人を愛する為に、最高に用いられ、有益な実を結ぶことが出来ます。

賜物において、妬みや高ぶり、卑屈や不満は禁物です。全ての賜物は、神様にとって、価値があります。最近、教会において、大きな賜物である愛の賜物の要素である「喜ぶ人と共に喜び、悲しむ者と共に悲しむ」という賜物の重要性を覚えます。

肉の思いでは、喜ぶ人を妬み、泣いている人たちに冷淡となってしまいます。世界中で、愛が冷えている状況を見ます時に、本当に必要な賜物です。26 節に「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」とあります。具体的には、援助して助ける賜物のことであり、弱さを覚えている人たちを配慮することを、おもにする教会の働き人の賜物のことです。

全ての賜物は、キリストを主と告白し、神様の栄光と、神様と隣人への愛を動機として用いられることが本分です。他の人に気を配ることをせず、自分勝手に賜物を用いるなら、分裂を生じかねません。自分自身に委ねられている賜物を、他の人を操ったり、自分の利益を得るための手段としたりして用いてはなりません。正しく用いることを、ご聖霊に願い求めましょう。

神様は、どの信者の為にも、その人にしか出来ない役割を備えていてくださいます。ですから、神様に愛されている皆さん、すべての賜物を、神様と神様の民に仕える為に、用いて行きませんか。その為には、キリストの十字架の恵みと、復活の力、そして、ご聖霊による信仰と望みに生かされることが重要となります。御聖霊による愛の賜物が、ますます個人と共同体に、増し加えることになりますように。お祈り致します。





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