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2023.5.7ヨハネによる福音書 20 章 1~10 節「あらゆる拠り所となるキリストの復活」

牧師 松矢龍造


キリストの十字架と復活、すなわちキリストの福音は、あらゆる意味で、私たちの信徒と生活の拠り所となります。第一に、イエス様は、ご自身が言われたように、死人の中からよみがえられました。それ故に、主イエス様が約束された全てのことを、成し遂げて下さる。そう私達が確信できる拠り所となります。

第二に、イエス様の肉体的な復活は、生けるキリストが、偽預言者でも詐欺師でもなく、神様の永遠の御国の支配者であることの拠り所となります。

第三、神の言葉である聖書の御言葉と教理と教えの全ては、真実であるという拠り所となります。

第四に、イエス様を生き返らせた父なる神様の御力は、私達を霊的に生き返らせて下さる拠り所です。

第五に、イエス様が、復活されたので、私たちは、イエス様を信じる自分たちの死後の復活を確信することが出来ます。肉体の死は終わりではなく、さらなる命があることの拠り所です。最も素晴らしいものは、これから来ます。

さらにキリストの復活は私たちの信仰生活の拠り所でもあります。ですから第六に、十字架は私たちの赦しと愛の基盤であるならば、キリストの復活は、私たちのあらゆる希望の源です。キリスト教の思想家の一人であるセーレン・キェルケゴールは、「死に至る病は絶望である」と言いました。キリストの復活は、最後の敵である死に対する希望の源であり、私たちが不安と悲しみと絶望の中で、よって立つ希望の源です。

第七に、キリストの復活は、世に対する教会の証言や宣教の基盤であり、拠り所です。

第八に、使徒パウロは、キリストの復活があるので、私たちの労苦は、決して無駄にならないと言っています。コリントの信徒への手紙一15章58節「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」

キリストの復活は、私たちの労苦が決して無駄にならない拠り所です。そして私にとっては、キリストの福音は、キリスト者として、牧師として、生かされ生きる本分となります。私は、この福音の為に生かされ、生き、死ぬのです。私の人生の全ての拠り所です。

それでは今日の御言葉であるヨハネによる福音書1節からもう一度。「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。」福音書に記された復活の記事の類型には、通常二つに分類されています。一つは、イエス様のご遺体が墓の中にないことを語り、間接的にイエス様の復活を語る「空の墓の出来事」と言われるものです。そしてもう一つは、復活されたイエス様が、弟子たちに現れたことを記す「顕現の出来事」です。ヨハネによる福音書では、先ず「空の墓の出来事」とりあげ、次に「顕現の出来事」に移ってゆきます。

それにしても、週の初めの日である日曜日の朝早く、暗いうちに、イエス様が埋葬された墓に行ったのは、複数の女性たちであったことが、他の福音書に記されています。ヨハネによる福音書では、なぜマグダラのマリア、一人だけ一人としているのでしょうか。マグダラのマリアについての詳細は、次週においてマリアへの復活の主の顕現についての場所で、とりあげます。福音書は既にマルコによる福音書、マタイによる福音書、ルカによる福音書が記され、初代教会において、何度も読まれていました。その中で、復活の出来事は、教理的な信条となっていました。その中で、新にヨハネによる福音書が記されました。このような公認の証言ではなく、復活を見た証人の、自発的な、個人的な証言の大切を述べていると思われます。

復活の信仰とは、最終的には、教理や他の人の証言ではなく、私達一人ひとりが、個人的に、復活の主と霊的に出会い、確立して行く信仰が大切なのではないでしょうか。

私自身は、最初にイエス様の十字架の死が、私の罪の為であることは、最初に教会の礼拝に出席してから、三日後の中高科のクリスマス伝道集会で、信じる恵みに預かりました。そこには、神学生との交わりと、ご聖霊の働きがあったと思います。しかし復活信仰は、その後に、個人的に、霊的に、復活の主に出会うことが必要となりました。

マグダラのマリアが墓を見ますと、石が取りのけてありました。この時の「見た」と訳されている原文の言葉は、「分かる」「認識する」という意味でもあります。空の墓であることを見て分かり、認識しました。しかしこの後、6節にありますペトロが見たと訳されている言葉は別の言葉で、「眺める」「観察する」「識別する」という別の言語となっています。

さらに8節でヨハネが見た言葉は、先の二つの「見る」と訳された言葉とは違います「認めた」「気づく」「経験する」という意味のギリシア語となっています。復活信仰とは、ある面で、信仰の成長というプロセスを通して、確信して行くものではないでしょうか。

私も、キリストの十字架は私の為であると三日で信じる恵みに預かりましが、キリストの復活に関しては、後に時間の経過が必要でした。そして先ず自分の霊魂の不滅という意味に受け取りました。さらに永遠の体においての復活ということは、後になって認識して、信じる恵みとなりました。

墓に、イエス様の体が見えなかったことで、すぐに復活信仰にはなりませんでした。復活信仰は、あくまでも信仰の次元で体得される性質のものではないでしょうか。キリストの復活は、そうたやすく、理性的に信ずることの出来ない、もう一つ、信仰の次元で、私たちの身に体得されてゆくものです。

宗教改革者の一人、マルチン・ルターが次のように言われていました。「聖なる神は、愛の故に自らを現わしてくださるが、聖なる神と人間の罪深さとの間に横たわるギャップの故に、自らを隠しつつ現わす御方である。」ですから、隠れたる神様は、信じる者に、恵みによって、霊的に現れて下さる。その時を待ち望むことも大切ではないでしょうか。

2節「そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。『主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。』」

マグダラのマリアは、空になった墓のことを、シモン・ペトロとイエス様が愛しておられた、もう一人の弟子のところへ走ってゆき伝えました。イエス様が愛しておられた、もう一人の弟子とは、このヨハネによる福音書の著者として用いられたヨハネであると伝統的に言われてきました。復活の証言は、マグダラのマリアに加えて、使徒ペトロの証言、使徒ヨハネの個人的な証言となってゆきます。復活の主の体は、石が取りのけられていなくても、外に出ることが出来る霊的で、しかも現実的な体でした。ですから、墓の石が、取り除かれていたのは、復活の主の為ではなく、空の墓を、人々に見せる為であった為でしょう。

3節と4節「そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。」ヨハネの方が、ペトロより若かったので、走りが早く、最初に墓に到着したのでしょう。加えてヨハネの方が、最後の晩餐で、イエス様の隣で、胸に抱かれるようにしていましたから、愛する主イエス様のことが、より気がかりで、より走りが早くなったのかもしれません。

5節と6節「身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。」

ここで、どうしてヨハネは、ペトロよりも先についたのに、墓の中に入らなかったのでしょうか。ペトロが後から来て、墓の中にすぐに入るのは、直情型のペトロの性格から見ると、うなずけます。しかしヨハネは、思索的な性格ですから、空である墓を見ていましたが、これが、どういう意味であるか、信仰と結びつけられるものであろうか。考察し始め、完全に悟るまでには至りませんが、見える次元から、信仰の次元に移り始める時間となったのではないでしょうか。ですから復活信仰の入り口に立っていたのではなかと考えられます。

7節「イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。」遺体は、通常、亜麻布で包まれました。そして芳しい香料や軟膏が塗られることもありました。さらに死者の顔には布がかけられていました。誰かが、遺体を包んで巻いてあった布を、わざわざはがして、遺体を持ち去るというのは、不自然な状況です。

8節「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」ヨハネによる福音書では「見て信じた」ということが、何度も出てきます。それが「見ずに信じる」ことに変わってゆく、転換点の場面ではないでしょうか。

9節10節「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。」復活信仰と、聖書の御言葉が、結びつけられるのは、ペンテコステの時の、ご聖霊の降臨以降と考えられます。

ですから、復活の信仰は、復活の主の霊的な出会いと共に、聖書の御言葉と結びつけて確信を深めてゆくことが重要となります。旧約聖書における復活信仰の預言は、たとえば詩編16編10節「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず」とあります。またホセア書6章2節「二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせて

くださる。我々は御前に生きる。」そしてヨナ書2章1節「さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。」

最後に、復活信仰は、信仰の成熟へと至るものであることを取り上げて閉じます。

第一の段階で、最初は、信じられない作り話と思うことが多いです。

第二の段階は、ペトロのように、その事実を調べますが、依然、困惑したままです。

第三の段階は、個人的に、イエス様と霊的に出会い、これによって、復活の事実を、受け入れる段階となります。

第四の段階は、聖書の御言葉と復活の信仰を結びつけて、確かにしてゆきます。

第五の段階は、復活された主に対して、献身し、主に仕える為に、人生を捧げてゆきます。それにつれて、私たちと共にいて下さる、主イエス様のご臨在を、十分に理解し始めて行きます。

復活の素晴らしさは、私たちに将来と希望と確かな主のご計画があることを伝えています。永遠の命、御言葉の確かさ、宣教の必要性を深く覚えましょう。その為には、空の墓のように、私たちの先入観や不信仰を空にする必要があります。そして心を空にしたら、キリストの御言葉を受け入れる器として、復活の御言葉を入れて行きませんか。

私たちも、祈りと御聖霊と御言葉によって、主イエス様の十字架と復活を、さらに確信しましょう。そして、復活の証人として、祝福の基として、平和の使者として、生かされ、この使命に生きて行きませんか。お祈り致します。

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