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2023.6.21 箴言 13 章 1~12 節「真実、勤勉、慈善、謙遜、管理の勧め」

牧師 松矢龍造


神様に従うことや、父の諭しによって知恵を得ることは、正しいことを選択することです。そして正しいことを選択することは、正しいことをする他の機会を、さらに生んで行きます。神様の御言葉に従うという決断は、人生に更なる、偉大な秩序をもたらします。

しかし神様に逆らい、神様の言葉に従わないという決断は、混乱と破壊をもたらします。けれど神様に従順になることは、もっと大きな守りと、完全さをもたらします。

これらのことは、今日の箴言の御言葉では、1 節と 9 節が特に関係します。父の諭しや叱責に関しては 1 節です。「子は父の諭しによって知恵を得る。不遜な者は叱責に聞き従わない。」そして神様に従うことは、9節にあります。「神に従う人の光は喜ばしく輝き、神に逆らう者の灯は消される。」

ここで、「光」とか「灯」とありますが、旧約時代、小さな素焼きの皿に、オリーブ油を入れて、明かりを灯しました。そして正しく知恵深い人の人生は、太陽の輝きのような神様の光、また律法は灯にたとえられました。逆に、悪や愚かさ、また死は、闇と表現されました。

私たちは、闇の業を捨てて、光の子として、ふさわしい歩みをするように勧められています。エフェソの信徒への手紙 5 章 6~9 節「むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。

あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」

続いて、自分の口の言葉を警戒し、偽りの言葉を憎めとあります。2 節、3 節、5 節です。2 節「口の言葉が結ぶ実によって、人は良いものを享受する。欺く者の欲望は不法に向かう。」3 節「自分の口を警戒する者は命を守る。いたずらに唇を開く者は滅びる。」5 節「神に従う人は偽りの言葉を憎む。神に逆らう者は悪臭を放ち、辱められる。」

よく「正直者は馬鹿を見る」という世の格言を聞きます。しかし神様は、全てのことを見ておられます。不正はその場限りであり、いつか露見して裁かれます。そして神様の言われることに誤りはありません。

次に、怠惰でなく、勤勉の勧めが続きます。4節「怠け者は欲望をもっても何も得られず、勤勉な人は望めば豊かに満たされる。」

ここは仕事を怠けたり、不注意なことをしたりすることへの警告がなされています。逆に勤勉が報われます。ある方が、人は「何々がしたい」が多すぎて、これが「何々をするんだ」に変わる時、本当の人生が始まると言っていました。いくら「何々したい」と言っても、何も実行しなければ、実現することはありません。むしろ「何々するんだ」と決断して実行するところにこそ、実現があります。そして実行する為には、神様の助けが必要です。

神様を敬って、骨身を惜しまず働く者は、往々にして奇跡のような仕事をすることが出来ます。こんな例があります。昔、ローマにフリヤス・クレシナスという人がいました。近所の農夫は、皆凶作で苦しんでいるのに、彼の畑だけは、作物が豊かに実っているのを見まして、周辺の人々から、魔法を使う者として告発されました。

すると彼は、筋骨たくましい娘と、肥太った牛を連れて法廷に出て、「魔法の種は、よく労働してくれる娘と、この牛である。これがわたしの魔法の種のあかしです」と言いました。神様を敬う者が、骨身を惜しまなく、勤勉に働くなら、他の人からは、奇跡と見えるような仕事を果たすことが出来ます。

イエス様は、タラントンの譬えをなさいました。マタイによる福音書 25 章 14~30 節にあります。特に 21 節と 23 節には、委ねられたタラントンが違っても、どちらにも忠実な僕に、同じ言葉がかけられています。「主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」

ここで少なくても三つのことが確認できます。一つは、神様は、私たちに、それぞれに才能や財 産を委ねておられます。二つ目に、神様は、人が神様から委ねられているものを、忠実に管理し、神様と人の為に、有益に用いるとこや、また増やすことが期待されています。三つ目に、人は、その能力に応じて、使命を受け留め、有益に働かせるなら、神様から報いを受けるということです。続いて 6 節「慈善は完全な道を歩む人を守り、神に逆らうことは罪ある者を滅ぼす。」慈善は、神様から与えられる知恵による業です。この知恵は、人の人生を生かし、また守ります。

続いて、7 節と 8 節と 11 節は、財産に関する格言となります。先ず7節「富んでいると見せて、無一物の者がいる。貧乏と見せて、大きな財産を持つ者がある。」

ここで富んでいるとか、貧しいとか言われているのは、物理的な貧富であると共に、精神的、霊的信仰的な貧富と、両方が考えられます。一見富んでいるように見えて、実は貧しい者たちがいます。ヨハネの黙示録に出てまいりますラオデキヤの教会の人々がそうでした。

3 章 17 節「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」

これに対して、使徒パウロは、貧しいようで、実は豊かである人の一人です。コリントの信徒への手紙二 6 章 10 節「悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」

こんな例があります。一人の信仰者が、会堂を建設するために寄付金を集めて、ある実業家を訪問すると、実業家は喜んで相当の献金をした後、そこに居合わせた三人の子どもたちにも、同じように献金をしたらどうかと尋ねました。

長男は、頭から拒絶して、「わたしはいやです」と言いました。次に次男は、持ち合わせた小遣い銭の半額を寄付しました。そして三男は、持っていたお金の全部を出しました。

この三人が成人して、後の身の成り行きを尋ねると、長男は、とかく利己的で、失敗ばかりの生活をしていました。次男は、体面のある紳士として尊敬を受ける人になっていました。そして三男は、地方で最も慈悲深い慈善家と呼ばれる人となり、後に家業に失敗した長男を引き取って、親切に世話をする人になっていました。子どもの頃からの心掛けが、彼らの一生に影響したものと思われます。

8節「財産が自分の身代金になる者もある。貧しい人は叱責を聞くことはない。」この聖句は難解であり、特に対句の後の方には、いくつかの説があります。旧約時代は、賠償金が払えない貧しい人は、身売りをしなければなりませんでした。ですから、財産がある人は、身代金が払えますが、貧しいなら、払えません。それで「貧しい者には、贖うべき富がない」と訳す聖書もあります。 そのように受け留めることも出来ますが、対句の後半にあります「叱責」という言葉は、原文で は「非難」や「譴責」とも訳せる言葉です。それで「貧しい人は、脅迫を聞くこともない」と訳している聖書もあります。それは、財産を沢山持っていなければ、身代金目当てに、子どもを誘拐される心配もないということになります。これならば、財産の多い少ないは、一長一短があることになります。

そしてもう一つの財産に関しては 11 節です。「財産は吐く息よりも速く減って行くが、手をもって集めれば増やすことができる。」

よく硬貨は、変質して損なわれやすく、蓄えることの出来ない、この世の富を象徴しています。また急いで得た財産は、減って行きやすいものです。そして不正な方法によって得た富は、必ず減ってゆきます。

むしろ使徒パウロは、不確かな富に望みを置くのではなく、神様に望みを置くように勧めています。テモテへの手紙一 6 章 17~19 節「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちに、すべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。」

続いて、高慢と謙遜に関する格言となります。10 節「高慢にふるまえば争いになるばかりだ。勧めを受け入れる人は知恵を得る。」

高慢は、深刻な愚かさです。高慢さによって、人は神様に逆らうようになり、神様の戒めを捨てて、富に頼り、神様ではなく、自分の力を信頼するようになります。謙遜と知恵は一体であり、謙遜を持てば、知恵が神様からの賜物であると認めることが出来ようになります。自分の力を信頼しても、未来は分からず、罪と死、悪魔と虚無に打ち勝つことも出来ません。

謙遜でなければ、「私が間違っていました」とか「私には助言が必要でした」と言うことは困難です。謙遜を要するので、なかなか言うことが出来ません。しかし「私が間違っていました」あるいは「私には助言が必要でした」と言えないなら、悔い改めも、成長も望めません。

12 節「待ち続けるだけでは心が病む。かなえられた望みは命の木。」期待と幻滅のことが語られています。神様を待ち望むことを知らない人々は、とかく、その心がいら立ちます。むしろ望みを抱いて、忍耐して待ち望む者は幸いです。マタイによる福音書 10 章 22 節「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

真実、勤勉、慈善、謙遜、管理の勧めを受け留めて来ましたが、これが実現する為には、いつくかのことが必要です。第一に、神様に愛されている存在であるということを、常に覚えることです。ならば、ブランドものをいくつも所有して、自分の存在を高めるような、愚かな浪費とはなりません。

第二に、真実である神様の御言葉に常に触れ続けることです。偽りや不正に目を留めるよりも、真実で真の神様の御言葉で、自分の心が、真実によって占められることが必要です。

第三に、心を尽くして神様を愛し、隣人を自分と同じように愛するという律法に、ご聖霊の力を頂いて従う者は、時が来ると実を結びます。「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」

第四に、知恵の源なるイエス様と常に共に歩むことです。イエス様は、天におられた時の豊かさを捨てて、地上に来て貧しくなられました。それは、私たちを真に富ませる為でした。コリントの信徒への手紙二 8 章 9 節「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」この主イエス様と常に共に歩ませて頂くことです。

第五に、神様を信じ、神様の知恵に従う者には、命の木が待っています。「命の木」は、創世記や黙示録になどにあります、神様の祝福の象徴です。

ノーベル平和賞を受賞したマザーテレサさんは、死んでゆく人の傍らにいる。その単純な行為の中に「命の木」を見出しておられました。それはイエス様を見出すと言ってもよろしいです。私たちも、主イエス様に結ばれて、委ねられている命の用い方を、正しくして行きませんか。

お祈り致します。


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