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2023.6.4 ヨハネによる福音書 20 章 19~23 節「見ないで信じる人は幸いである」

牧師 松矢龍造


信仰には、疑いがつきものです。しかし同じ疑いでも、良い疑いと、危険な疑いの二つがあります。良い疑いとは、疑いが質問につながり、その質問が答えにつながり、その答えを受け入れるなら、疑いは良い結果をもたらものとなります。 しかしもう一つの危険な疑いは、疑いが信仰を害することになるものです。疑いが、心のかたくなさに繋がり、心のかたくなさが、高慢な生き方になる場合です。 ですから、疑う時は、そこに止まってしまってはなりません。答えを探し続けるなら、あなたの疑いは、御言葉と、ご聖霊の光と共に、信仰を深めさせるものと、なってゆきます。 今日の御言葉には、疑う懐疑主義者の代表のような、トマスのことが出てきます。24 節「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。」 ここでどうしてトマスだけが一緒にいなかったのか。その理由は記されておりません。しかしご摂理によって、トマスのように、疑う不信仰な者たちを、復活された主イエス様が、なお憐れんでおられる、そのことが伝えられる機会となりました。 トマスを形容している言葉は、「ディディモ」とあります。これは原文では「双子」という意味です。このことは、トマスが、物理的に双子であったということを先ず意味しています。しかしなお双子と言われていることは、物理的な双子ということ以上に、トマスには、二つの側面があることを示しているのではないでしょうか。 そう指摘している神学者がいます。二つの側面とは、一つは信仰者トマスという面と、もう一つは、疑う懐疑論者トマスという面です。彼の内にある信仰的な性格の二面性のことを、ディディモという形容で表しているのかもしれません。 トマスは、伝説によれば、この疑っていた時から、真に大磐石のような信仰を獲得し、幾多の苦難や迫害をしのいで行きました。そしてインドにまで、宣教に出かけ、そこで殉教者として最後を遂げたと言われています。 加えて、クリストモスという神学者によれば、トマスは、先に幼子であったイエス様を拝みに来た、東方の博士たちと巡り合い、彼らを一人残らず、キリストの福音の光に導いたと言われています。 それでは、今日の御言葉を 25 節からもう一度。「そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』」 トマスは、他の弟子たちが、復活されたイエス様に出会ったと言っているのに、自分自身は疑い、一週間、希望と恐れの間で、動揺し、やきもきしていたことでしょう。 26 節「さて八日の後、弟子たちは、また家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」

イエス様が、他の弟子たちに現れてから八日の後、すなわちユダヤでは当日も一日考えますから、八日の後とは、一週間後の日曜日ということです。復活されたイエス様は、日曜日毎に現れるということを繰り返されました。 キリスト教徒が、日曜日を安息日とするようになる初めです。イエス様は日曜日の朝に復活され、また次の日曜日に現れます。キリスト者にとって、最終的な安息は、肉体の死後に復活し て、永遠の天の都で迎える、永遠の安息のことです。それ故に、ユダヤ教の安息日が土曜日であるのに対して、日曜日を安息日に変更したことの根拠がここにあります。 復活されたイエス様の体は、戸が閉じられている部屋にも現れることが出来、しかも触れることも、共に食事をすることも出来る体です。ですから幽霊でも、奇妙な現象でもありません。イエス様の復活は、現実であり、イエス様は霊だけでなく、肉体がありました。 ただし、かつて死人の中から生き返ったラザロのような、また死ぬ体ではありません。同じ種類の血肉ではなく、しかも自然法則には支配されない体です。そして主イエス様を信じた人にも頂くことが出来る永遠の体は、復活されたイエス様の体と、同じような体となります。 イエス様は、一週間前に、弟子たちに現れた時と同じように「あなたがたに平安があるよう に」と言われました。そして疑うトマスの鈍さを叱責されることもなく、主イエス様は、何度 も、繰り返して「あなたがたに平安があるように」と言ってくださいます。それは主イエス様の愛と憐れみの表われです。 途方にくれていた人の要求に応えてくださったイエス様は、同じように途方にくれている私たちにも、信仰と霊によって現れてくださいます。 私たちが時に、夜空に星が見えない時のような、精神的な暗黒の時も、また孤独の中にあっ て、優しい人の声を聴くことが出来ない時も、主は御言葉から、私たちの聴くべき御言葉を、ご聖霊によって与えてくださいます。 27 節「それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』」 イエス様が十字架につけられる際、手に釘が打たれ、息を引き取られた後に、腹には槍が刺されました。その傷跡があることは、まさしく十字架につけられたイエス様が、今ここにおられる復活された主イエス様だと、確認することが出来るということです。 28 節「トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。」彼は、イエス様が、十字架で受けた傷を見て、イエス様が復活されたと確信します。それは、彼が、目に見えるイエス様の傷を見て、目に見えない神性を認めたということです。主とは、神様と同義語である共に、イエス様の権威と力を強調している呼称です。 すでにありましたマタイによる福音書の特徴は、イエス様が王であるという側面を強調しています。またマルコによる福音書では、イエス様が、僕となられたことを強調しています。さらにルカによる福音書は、神でありながら人となられたイエス様を強調しています。そしてこのヨハネによる福音書では、イエス様が、神の子であることを強調しています。 イエス様は、疑ったり、鈍かったりするトマスに現れてくださったように、あなたにも、ご聖霊という御姿で、現れ、共におられます。ですから、あなたは、傍らにおられるイエス様に、祈りを通して、話すことが出来ます。 そして聖書の中から、イエス様の、あなたへの言葉を見つけることが出来ます。イエス様は、トマスに対してと同じように、あなたに対しても、現実的なお方です。

29 節「イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」

見ないで信じる人は幸いであるとは、キリストの福音を聴いて信じる者は幸いであると言い換えることが出ます。それは、このヨハネによる福音書の救いに関する中心的な御言葉にも通じています。

ヨハネによる福音書 3 章 16 節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

見ないのに信じることは、聖書を通して、見える偶像が拒否され、見えない永遠の神様への信仰が、この角度からも説明できます。もちろん見えないのに信じるとは、妄信ではありません。十字架と復活の言葉を聴いて、信じるということです。

科学者の中にも、理論物理学者の中でさえも、目で見ることも、触ることも出来ないものを、数多くの人が信じています。相対性理論で知られているアンシュタインも、「奇跡を信じる人生と、奇跡を信じない人生がある。私は、奇跡を信じる人生を選ぶ」と言っています。

そして使徒パウロも、見ずに信じる恵みを語っています。ローマの信徒への手紙 8 章 24 節「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。」

加えてローマの信徒への手紙二 4 章 18 節「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

主イエス様は、疑い不信の中にいた弟子を、優しく、忍耐強く取り扱われました。それは私たちに対しても同じです。そして私たちが、絶望的な最暗黒と思える状況ならば、人類の中で、最暗黒の十字架で、父なる神様にすがられたイエス様の心に近づくことが、真の希望と幸いへの道となります。

ここに真の信仰があります。そして復活されたイエス様の現れである顕現の頂点を見ます。ディディモのトマスは、信仰に変えて頂いた疑いの先駆者です。あなたが信じるようになる為に、またあなたが信じ続け、確信を深める為に、今日の御言葉を、ご聖霊によって受け留めて行きませんか。

20 章 30 節 31 節「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」

そして、信仰と永遠の命への希望に満ち溢れて、主にあって互いに愛し合いながら生きる群れと、さらになってゆきませんか。最後に、ペトロの手紙一 1 章 8 節を拝読して閉じます。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」お祈り致します。

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