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  • 執筆者の写真CPC K

2023.7.12箴言 14 章 1~16 節「高慢さや傲慢の危険」

牧師 松矢龍造


私たちが、結婚する際に、参列者に感謝のカードを贈りました。そのカードには、「今あるは神様の恵み」という聖句を記載しました。そして現在加えるとしたら、今あるは、主にあって妻のお陰と、伝えると思います。自分だけで、家庭や教会の牧会が出来るはずもなく、もちろん妻に加えて、主にあって皆様、お一人お一人のお陰とも言えます。

今日の御言葉の冒頭の一節に「知恵ある女は家庭を築く。無知な女は自分の手でそれをこわす」とあります。ここで築くとは、住宅を新築したり、巧みに家計をきりまわして行うことであったり、家庭の幸福をはかることでもあります。その前提になりますことは、家庭での正しい価値観が、神様を恐れ敬うことであるということです。そして神様を恐れ敬うことが知恵であり、このことを教える女性の重要な役割を指すとも考えられます。

ゼレミー・テーラーという賢者が、知恵ある妻のことを次ように言われていました。「良い妻は、神様が与えてくださった最後で最善の賜物である。彼女は、その夫にとって恵みの天使、忠実な役者、あらゆる徳行の結晶である。彼女の声は、彼にとって、最も美しい音楽であり、彼女の笑みは、彼にとって、最も心良い日よりであり、彼女の接吻は、彼の純潔の保護である。

彼女の腕は、彼の安全を守る鍵、その健康を助ける良薬であり、彼女の勤労は、彼の最も確実な富、彼女の節約は、彼の信頼する家司、彼女の唇は、彼の無二の相談相手、彼女のふところは、彼の思い悩みを癒す柔らかい枕、彼女の祈りは、神様の祝福を彼の頭に呼びくだす執り成しである。」

夫も妻も、そして人としても、主と人々の前で謙虚であることが常に大切となります。そして高慢と傲慢は、常に危険となります。3節に「無知な者の口には傲慢の杖。知恵ある人の唇は自分を守る」とあります。

自慢する人の特徴は、第一に、自分で自分のことが、よく分かっていません。第二に、自分のことばかり考え、人のことを思いやる余裕がありません。

加えて、自信家の特徴は、第一に、人を押しのけます。第二に、悪い結果となりますと、いつも人のせいにしたり、怒ったりして非難をします。第三に、自分が用いられないと気分を害します。第四に、事がうまくいくと、おれのおかけだと、すぐに自己讃美をします。第五に、何事にも謙虚な自己反省がありません。さらに自己満足の姿の特徴は、第一に、欲望第一主義です。第二に、自己中心で、自分第一主義です。

これらと真逆で、自信がない人の特徴は、第一に、いつもおどおどして、人の気持ちばかりを気にしています。第二に、自分というものを持っていません。また独立していません。第三に、力が出しきれません。

ですから、人間にとって、大切なことは、自分の力を過少評価することも、過大評価もしないことです。別の表現をするならば、神様の御前に、自分が罪人であり、同時に、自分の存在が、神様に愛され、選ばれ、神様の愛と導きの中で、素晴らしい可能性があることを、はっきりと認めることです。

それにしても、グラットストンという神学者が、今の時代の悪習を指摘して次のように言われています。「今の世に最も欠けているのは、罪の観念である」。ですから、神様の御前に、高慢であり、傲慢の危険の中にあるということです。それは過失でも、失敗でもなく、罪は罪です。ローマの信徒への手紙1章20~23節「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。

なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。

自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」

そして不遜や、嘲りや、軽蔑が出てくる背後には、次のようなことが考えられます。第一に、妬みから起こる攻撃的で排他的な気持ちがあります。第二に、けなすことによって、自分の自信のない優位性を守ろうとすることです。第三に、自分の醜さ、罪深さ、弱さを知らずにいながら、自分の勝手な思い込みで、人を判断することです。

ですから、12節をかみしめましょう。「人間の前途がまっすぐなようでも、果ては死への道となることがある。」「まっすぐ」と訳された原文の言葉は、「ただしいこと」「ふさわしい」「平らな」と言う意味でもあります。人間には、罪があるので、まっすぐに、あるいは正しく、平らに見えても、神様の基準に照らせば、曲がっているので、結果は死に至ります。ですから、自分の勝手な基準ではなく、神様の律法や知恵に自分自身を照らし、神様の教えに従うことが大切になります。また人生には、思いがけない誘惑が隠されています。

神様からの知恵は、何が本当に正しく、何が偽りなく公正であるかを判断する力を与えます。これは神様を恐れ敬い、神様に従う者に、与えられるものです。

16節「知恵ある人は、畏れによって悪を避け、愚か者は高慢で自信をもつ。」新約聖書にあるイエス様の弟子であるペトロは、自分の意志と力を信じて、たとえ皆の者が躓いても、自分は決して、イエス様を否認しないと言いました。そしてゲッセマネの園では、祈らず眠っていました。高慢で自信家であったペトロは、その後、大祭司の庭で、三度主を否みました。

それでは、高慢や傲慢になる危険から逃れる為には、何が必要でしょうか。第一に、人間の基準で物事を見るのではなく、神様の基準で、物事をたえず見るということです。第二に、常に自分の欠けや罪を告白して、主イエス様のもとに行くことです。そして主イエス様に密着して、主を恐れ敬うことです。

第三に、外見上の近道に誘惑されてはいけません。それは正しいように見えますが、死に至ることを忘れてはなりません。そして第四に、正しい選択は、しばしば骨の折れる仕事であり、自己犠牲を要することであることを弁えていることです。

さらに第五に、たえず神様に、聴き従うことです。御言葉に聴き従い、御聖霊様の導きに絶えず従うことです。第六に、主イエス・キリストは、自分を捨て、私たちの救いと喜びの為に、十字架で、命を捨ててくださったことを、常に覚えることです。

加えて第七に、素直に、人の存在を受け入れ、人の中に、良い点を見出し、心から尊敬して、人をいつも、善意を持って見て、判断することです。

最後に、第八として、こんな不完全な私を、なお愛し、見守ってくださっている神様が、どのような、私を見ていてくださっているのか、絶えず、キリストの内に自分自身と隣人を見出して行くことです。

自分は、誘惑に陥ることはないと、高慢や傲慢になっているなら、かならず負けてしまいます。それでは、どうしたら、高慢や傲慢に陥ることなく、誘惑に打ち勝つことかできるのでしょうか。ソン・ソンチャンという方の「誘惑に打ち勝つ方法」を最後に受け留めましょう。

「性欲は、一時的な快楽だけにとどまりません。『わいせつな動画を一度も見たことのない人はいても、一度だけしか見たことのない人はいない』といわれるゆえんです。ところで、近頃の社会では、わいせつな動画を見ること自体を問題視しないようです。そのような『大丈夫だ』という考えが、様々なかたちで、私たちの性文化を汚染しています。

知らないうちに、それらは、私たちの身体と情緒、たましいに長時間、強力な影響を及ぼします。それでは、私たちは、この誘惑に、どのように対処すれば、よいのでしょうか。率直に言えば、これは自分の意志の力では、制御不能な衝動であり、自分ひとりだけの決意で打ち勝てるものではありません。スマートフォンを開いても、ただ道を歩いていても、刺激的な誘惑の一つや二つではありません。

だからといって、そこから逃げたり、罪責感を感じたりすることによって、対処できるものでもありません。時間の経過とともに、正当化され、さらに淫乱なものに変わってゆくだけです。解決策は、まことの愛を知ることです。まことの愛を経験するなら、他人を所有したいという欲望よりも、保護と犠牲の思いが強くなります。私は、私たちが『ただの恋愛』『ただの結婚』ではなく、先ず『真の愛』を受け留めることが、できたらと思います。

私の場合、女性を異性と見るよりも、たましいが宿った、神様の似姿として、相手を見るようになった時、ようやく性的な誘惑に、打ち勝てるようになりました。罪責感や節制によっては、どうすることもできません。相手を、神様が愛されている存在として見ることが重要です。それが、まことの愛です。まことの『愛』は、常に『性』をも圧倒するものです。」

神様に、まことに、その存在を愛されている皆さん、自分の罪と弱さを自覚し、主イエス様と、御言葉と、ご聖霊に、心の目を向けましょう。そして自分自身も、隣人も、神様から愛されている存在として見ることが出来ますように。自分の肉や意志に頼るような、高慢や傲慢に陥ることなく、謙遜の限りを尽くされた、主イエス様と共に、誘惑に打ち勝ってゆきませんか。そして、ご聖霊様から真の愛の実と力を頂き、骨の折れる働きや自己犠牲をいとわない歩みとなって行きませんか。お祈り致します。

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