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  • 執筆者の写真CPC K

2023.7.16サムエル記上 1 章 3~20 節「祈りにいたれば全て良し」

牧師松矢龍造


皆さんは、本当に苦しい時、どうしますか。あるいは逆に、最も喜ばしい時、どうされますか。ともすると、本当に苦しい時は、神様や人に不平を言ったり、神様から離れる危険があったりします。また、最も喜ばしい時は、神様に頼らず、順調なことによって、神様に対する関心が薄れてしまう危険があります。

そんな中で、どんな時にも、信仰と霊性において、最も良いことは、祈りにいたれば、全て良しです。今日の御言葉には、サムエルの母となるハンナの祈りが記されています。サムエルは、最後の士師にして祭司であり預言者であり、キングメーカー・王を立てて行くために、主によって用いられた人物です。

サムエル記には、預言者の言葉による宗教、また神様によって治められる王国、そして歴史における神様のご摂理が、展開されています。これらのことで、共通しているのは、祈りが用いられているということです。

今日の御言葉が展開されている場所は、当時イスラエルにおいて、国の宗教的中心地であり、幕屋と契約の箱が置かれていたシロです。ヨシュア記 18 章 1 節「イスラエルの人々の共同体全体はシロに集まり、臨在の幕屋を立てた。」

イスラエルの男子は全員、幕屋で開かれる宗教的な祝祭である三大祝祭の時に、参加しなければなりませんでした。申命記 16 章 16 節「男子はすべて、年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない。ただし、何も持たずに主の御前に出てはならない。」

けれど、士師時代は、イスラエルの民の中で、この三大祝祭の時においても、幕屋のあるシロに上ることを疎かにする人々が多くなっていました。信仰的な不毛の時代です。けれど祭司の家系であるエルカナは、毎年、自分の町あるラマから、シロに上り、万軍の主に礼拝をし、いけにえを捧げていました。

シロにあります幕屋で、祭司と仕えていたのは、祭司であり、士師でもあったエリであり、その息子たちであるホフニとピネハスも、祭司として、主に仕えていました。

しかしこの祭司エリと一緒に祭司として仕えていた二人の息子たちは、堕落して、好き勝手なことをしていました。それはわずかに残るイスラエルの信じ深い人たちにとって嘆きとなっていました。

動物のいけにえは、血と脂肪は、神様に捧げ、その後、残りの部分は、一部は祭司のものとし、あとは献げた人とその家族が食べることが許されていました。申命記 27 章 7 節「また、和解の献げ物を屠ってそれにあずかり、あなたの神、主の御前で喜び祝いなさい。」

ところが、祭司エリの息子たちは、いけにえを、不当にごまかして、着服していました。それはイスラエルの民が、主の御前に堕落していた姿を象徴していました。そんな中で、年老いた祭司エリの代わりに、良き祭司が、彼の息子たち以外に求められていた時です。まさにご摂理の主が、あえて許されたのが、祭司の家系であるエルカナの妻、ハンナの胎が閉ざされ、子どもが与えられなかったという事でした。

おそらく、ハンナに子が与えられなかったので、夫のエルカナは、子どもをもうけるために、もう一人の妻としてペニナをめとったのでしょう。そしてこのペニナには、何人もの子どもが与えられたのに対して、ハンナには、この時まで、子どもが与えられませでした。

イスラエルでは、子どもは、神様の賜物と信じられていました。子どもを授けるのも、授けないことも、神様御自身です。そして当時のイスラエルでは、子どもは、神様の祝福のしるしとされました。ですから、当時のイスラエルの女性にとって、不妊は恥辱であり、悲しみでした。 エルカナのもう一人妻であるペニナが、そのような神様の祝福を受けて、複数の子どもたちが与えられているのに対して、それを見ているハンナには子どもがなく、思い悩むのは、当然のことでした。

けれど、創造主なる神様は、この親族関係の緊張とストレスのうちに、御摂理によって働か れ、旧約時代の最も重要な人物の一人であるサムエルを、この世に送る為に、このハンナの葛藤が用いられて行きます。創造主なる神様は、混乱から、秩序と美とを引き出すことによって、ご自身の創造性を発揮されるお方です。

それにしても、夫のエルカナは、実に鈍感な存在でした。祭司の家系にあるのに、複数の妻をもうけ、しかも妻のハンナに子がなく、もう一人の妻ペニナに子が複数与えられている中で、二人の妻の、それぞれの心の葛藤を、顧みることが少なかったのです。特に妻と共に、神様に祈ることへと導きませんでした。

ハンナは、ツロでの祝祭のたびごとに、もう一人の妻ペニナから、心の傷口に、塩を刷り込むようなことを言われて、食事も出来ないほど、傷ついていました。彼女に対する夫の愛も、その傷を癒せないほどでした。

一方、ペニナは、何人もの子どもをもうけたのに、夫としての愛情は、あいかわらず、ハンナの方にありました。その妬みから来る鬱憤を、夫から自分より愛されているハンナにぶつけたのでしょう。ペニナは、自分の失望と怒りを、ハンナにぶつけることによって、事態を悪化させました。

私たちも、同じです。失望と怒りを、人ではなく、主のもとで、祈りを通して、訴えることが必要です。ところが、人にぶつけることによって、事態は悪化してゆくのです。

それにしても、一夫多妻は、争いのもとです。愛には、正しい秩序が必要です。もともと創造主なる神様は、一夫一婦として、結婚を定められました。

このような葛藤の中で、ハンナは、その苦しみと悩みを、夫には出さず、主に注ぎ出して祈りました。旧約聖書、詩編 50 編 15 節「それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって、お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」

ハンナは、失望に対して、第一に、神様に正直に訴えました。ハンナは、神様のご摂理に対して、不平を言ったり、神様の愛を疑ったりしませんでした。その代わりに、ただ事件と心の思いを、神様の御前に持ち出して訴えました。そしてもし、男の子が与えられたなら、ナジル人のように、一生神様に仕える人として、この子を神様に捧げますと誓いました。

ナジル人とは、かつて士師の一人サムソンに言われたことが参考になります。士師記 13 章 5 節「あなたは身ごもって男の子を産む。その子は胎内にいるときから、ナジル人として神にささげられているので、その子の頭にかみそりを当ててはならない。彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう。」

それにしても祈りは、悲哀を癒される最上の道です。これが勝利と確信の道でもあります。祈りの中に、確信を握るなら、満足があり、平和があります。詩編 62 編 7~9 節「神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。民よ、どのような時にも神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。」

続いて失望の時の助けは、第二に、良い信仰の友人やカウンセラーから助けを受けることで す。幕屋にて、ハンナは、嘆きの祈りをしていました。するとその姿を、祭司エリは見ていて、最初は、ハンナが酒によっているのかと思いました。

それは、当時、人々は、声に出して祈りました。ハンナは、声を出さずに祈っていたので、ハンナの唇だけが動くのを見た祭司エリは、誤解したのでしょう。

そしてハンナから実情を聴きました。15~16 節「ハンナは答えた。『いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。はしためを堕落した女だと誤解なさらないでください。今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。」

エリはハンナに言いました。1 章 17 節「『安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように』と答えた。」

私たちは、互いに祈り合い、助け合うことが出来ます。特に、互いに祈り合う友や隣人がいる人は幸いです。ヤコブの手紙 5 章 16 節「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。」

そして失望に対しての助けの第三は、神様に本意を申し上げたなら、問題を神様に委ねて、最善以下をなさらない、神様を疑わずに信じることです。マタイによる福音書 21 章 21 節 22 節

「イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、「立ち上がって、海に飛び込め」と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。』」

主の御心にかなっているならば、マルコによる福音書にもこうあります。11 章 24 節「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」

ハンナは、この祈りの後に、食事をすることが出来るようになり、彼女の表情は、もはや以前のようではありませんでした。そしてエルカナ一家は、朝早く起きて、主の御前に礼拝し、ラマにある家に帰って行きました。その後、エルカナは、妻ハンナを知り、主はハンナを御心に留められ、ハンナは身ごもり、月満ちて、男の子を産みました。

主に願って得た子どもなので、その名をサムエル、ヘブライ語の意味で、「その名は神」あるいは「神様は聴かれる」です。ハンナは、誓ったことを果たして、サムエルが乳離れした後、幕屋に行って、サムエルを捧げます。

祈りは、誘惑より逃れる道であり、またこれに打ち勝つ唯一の道です。そして祈りの子に育てられた子は、また祈りの人となって、清い生活を営み、大きな奉仕をするようになります。

皆さんは、本当に苦しい時、どうしますか。また本当に喜びに溢れたなら、どうしますか。苦しみの時も、喜びの時も、祈りにいたれば全て良しです。あなたも、あらゆる時に、神様に祈りと讃美を捧げて行きませんか。

最後に、詩編 99 編5節と 6 節を拝読して閉じます。「我らの神、主をあがめよ。その足台に向かってひれ伏せ。主は聖なる方。主の祭司からはモーセとアロンが、御名を呼ぶ者からはサムエルが、主を呼ぶと、主は彼らに答えられた。」お祈り致します。

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