top of page
  • 執筆者の写真CPC K

2023.7.19箴言 14 章 17~35 節 「慈善と避けどころ」

牧師 松矢龍造


現代ほど、「愛」と言う言葉が氾濫している時代はないと言われます。そして同時に、現代ほど、愛がない時代はないのかもしれません。世界中に、争いと罪は多く見られるのに、一致と慈善が見られることが少ないと言えます。 そんな中で、パク・ヨンソンという方の「隣人の救いのために」という内容が心に留まりました。「人を説得したり、励ましたりするのに、その人を鞭打つことが功をなす場合と、その人を受け入れることが功をなす場合があります。そこには、正解がありません。 だれかが過ちを犯したとき、訓戒することで相手が励まされる場合と、『私も一日に何度もそう考えます。人間は本当に弱い存在ですね』という共感のことばによって励まされる場合があります。ただし、私たちは霊的訓練を通して、自分の立場よりも、相手の立場を先に考え、彼らを励ます眼識を育てる必要があります。 正解を話して𠮟るべきか、弱さを慰めて励ますべきか。それを見分けるのは、本当に難しいことです。どこまで勇気で、どこまでが蛮勇なのか、どこまでが知恵で、どこまでが妥協なのか、その境目を知ることは、とても難しいことです。そのようなときは、思い煩わずに祈り、神様に知恵を求めなければなりません。 私たちは、自分のそばにいる隣人を、真理に立ち返らせることに、自分の存在と行動が、少しも邪魔にならないようにしてくださいと、祈り求めましょう。隣人がキリストに立ち返り、私たちと同じ信仰を持つことが妨げとならないよう、自分の品性、態度、勤勉さ、常識など、どんなことおいても、気をつけましょう。それが弟子の生き方であり、弟子訓練なのです。」 本当の愛は、無条件で、相手の存在を受け入れ、相手の喜びを喜びとし、相手の悲しみを悲しみとする愛です。そんな本物の愛は、神様にあります。今日の御言葉である 14 章 20 節には「貧乏な者は友にさえ嫌われるが、金持ちを愛する者は多い」とあります。富める者も、貧しい者 も、無条件でその存在を愛し、一人ひとりの最善を願うことだと示されます。 続いて 21 節「友を侮ることは罪。貧しい人を憐れむことは幸い。」貧しい者を憐れむことは幸いです。誰もが、神様の心の形に似せて造られた霊的な存在です。新約聖書ヤコブの手紙 2 章 6 ~9 節にこうあります。「だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。 もしあなたがたが、聖書に従って、『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。」 続いて 31 節「弱者を虐げる者は造り主を嘲る。造り主を尊ぶ人は乏しい人を憐れむ。」造り主を尊ぶなら、私たち同様、造り主によって造られた人々を憐れみます。逆に、弱者を虐げる者 は、造り主を嘲ることになります。無条件で、その存在を愛し、全ての人の為に命を与えられた神様を知り、神様に従う、へりくだった心に、神様のからの恵みが、さらに注がれます。 知恵ある生き方は、正しい生き方ですが、特に、貧しく虐げられている人々に、正義と公正をもって接することが大切になります。34 節「慈善は国を高め、罪は民の恥となる。」ここで「慈善」と訳された原文の言葉は、「正義」あるいは「公義」という意味でもあります。 慈善や正義が行われる国は栄えますが、罪が国に満ちる時、民は塗炭の苦しみに悩むことになります。私たちも、愛する祖国日本の為に、大いに祈らなければなりません。神様の民であるイスラエルは、貧しい人に対する、神様の愛を、自らも実行しなければなりません。イエス様も、神の国について、弟子たちに、同じような教えを述べておられます。「いと小さな者にしたことは、私にしたくれたことである」と言われています。 そして慈善の実践に関する言葉が 23 節です。「どのような苦労にも利益がある。口先だけの言葉は欠乏をもたらす。」語る時に、慎重に言葉を選ぶ大切さは、箴言の主題の一つです。知恵ある者は、必要以上に語らず、あわててしゃべることがありません。そして口先だけでなく、語ったなら、その言葉通りに、労苦を持って、隣人の為に、愛の業を、主にあって実行します。 加えて、短気は、愚かな歩みとなり、愛を表すことを妨げる時があります。17 節「短気な者は愚かなことをする。陰謀家は憎まれる。」また 29 節「忍耐によって英知は加わる。短気な者はますます無知になる。」 むしろ短気という感情や怒りを善用できるように、ご聖霊なる神様に祈りましょう。短気や怒りは、物事に取り組み続けるエネルギーに善用されます。加えて、短気は、体の健康を害しま す。むしろ穏やかな心は、心身に有益です。30 節「穏やかな心は肉体を生かし、激情は骨を腐らせる。」 続いて 24 節「知恵ある人の冠はその富。愚か者の冠はその無知。」花で飾った冠が、結婚式など、特別な時に使われました。イスラエルの花嫁は、美しい冠をかぶり、顔をヴェールで覆いました。知恵が、冠となって人々を飾るというのは、知恵ある生き方が、誰の目にも、明らかに美しく、成功と栄誉を与えることでしょう。神様からの知恵と愛の業を冠とした歩みは、神様と 人々の御前で、美しく輝きます。 イエス様もマタイによる福音書にあります山上の説教で言われています。5 章 16 節「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」 6月に行きましたジャカルタ研修ツアーにおいて、イスラム圏において、良い宣教を続けておられるJPCC は、人々を地道に弟子訓練して、良い品性と行いを持って、各分野の中に入って行くことを大切にしておられました。そして、キリストの香りのように、源なるイエス様を証ししておられました。 続いて、今日の御言葉中から、避けどころに関する御言葉を受け留めます。26 節 27 節「主を畏れれば頼るべき砦を得、子らのためには避けどころを得る。主を畏れることは命の源、死の罠を避けさせる。」 神様を恐れ敬うことは、知恵と密接な関係があります。知恵ある生き方は、神様を拝み畏れ、律法に従って生きます。そして神様は、人を守る砦、あるいは塔と言われています。主を恐れ敬うことは、命の源泉であり、罪の結果である死の罠から、逃れさせます。32 節にも神様に従う者の避けどころが記されています。「神に逆らう者は災いのときに退けられる。神に従う人は死のときにも避けどころを得る。」

神様からの知恵は、私たちに、原則と決断力を与えます。ハン・ギチェという方が、「一貫した原則と決断力」ということで、次のように言われていました。「断固として、拒むことにしての決断には、いつも『いいえ』と言うことができる勇気が必要です。アメリカでは、子どもたちに

『Jus Say No・ただノーと言おう』というスローガンを掲げて、麻薬、酒、たばこ、性的虐待、暴力を拒むよう指導しました。

『いやです』『それは正しくない』『私に触らないで』と言って、拒む訓練をしたのです。してもいい領域と、してはいけない領域の区別を教えられないまま育ったままの人は、衝動的で、無責任になり、中毒性のあるものに影響されやすいそうです。

『いいえ』とはっきり断るためには、原則と決断力が必要です。損をすることを恐れたり、感情に流されたりして、妥協するなら、さらに悪い結果を招くことになります。しかし、信仰によって決断するなら、生きておられる神様に出会うことができます。神様が守り、助け人を送り、敵にさえ感動を与え、どんなことであっても、結果的に、さらに良くしてくださる御業を体験できます。

ビジネス・コンサルタントであるジム・コリンズは、『禁止事項』のリストを作るように勧めています。この世の一般的な人々も、成功のために、何かを定め、決然として活動します。私たちも、『絶対にやるべきこと』のリストと、苦しくても絶対に断ち切るべき『禁止事項』のリストを作りましょう。

そして、その領域を守って、生活しましょう。そのように生きることが、この世の原理に従わず、神様に従って生きる人生です。カメレオンのように、この世と同化し、妥協して生き残ったとしても、それは無意味な人生です。原則の問題においては、覚悟をもって決断し、それを一貫して守り抜くべきです。」

神様に愛されている皆さん、神様から知恵を頂いて、原則と決断力を養って行きませんか。そして慈善と避けどころを得て、神様の民のアイデンティに忠実な歩みを、ご聖霊の助けと、導きに従って、歩んで行きませんか。お祈り致します。

閲覧数:1回0件のコメント
bottom of page