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2023.7.23NGW ヨハネによる福音書 1 章 43 節『それぞれの弟子に目を留めて招かれたイエス様』

  • 執筆者の写真: CPC K
    CPC K
  • 2023年8月15日
  • 読了時間: 6分

「イエスは、『わたしに従いなさい』と言われた。」


牧師 松矢龍造

私たちは、皆一人ひとり、それぞれ違った性格であり、それぞれ違った神様からの役割があります。同じように、イエス様が、最初に招かれた弟子達も、みな、それぞれ違った性格や個性がありました。イエス様は、それぞれ、一人ひとりの弟子に目を留めて、一人ひりとりを弟子として招かれました。

神様であるイエス様は、同様に、本当のあなたを、全部知っておられて、あなたが、イエス様御自身について来てほしいと望んでおられます。

でも、イエス様について、誰も最初は、どういう御方であるかを知りません。それで、イエス様のことを、あなたより前に知って信じている人から、聴く必要があります。また聖書を通して、イエス様について、学び続けることが必要です。

私の場合、イエス様のことを最初に教えてくれたのは、教会の牧師という方でした。そしてその教会に最初に誘ってくれたのは、同じ高校二年生のクラスにいた、クリスチャンの同級生でした。皆さんに、一番最初にイエス様を伝えたり、教会に誘ってくれたりした人は、誰でしたか。

イエス様の一番最初の弟子は、アンデレさんでした。彼は、バプテスマのヨハネさんから、イエス様のことを聞いて、イエス様に従いました。バプテスマのヨハネさんは、イエス様のことを、私たちの罪を取り除く、神の小羊だと教えられました。他にも、後に、イエス様は、ラビ・先生と教えられたり、救い主・メシア、また神の子であったり、イスラエルや世界の王ですと教えられていきました。

イエス様のことを知るようになるにつれて、お弟子さんたちは、イエス様について、正しく知り、認識が、成長して行きました。私たちも、イエス様のことを知る為の、時間を過ごせば過ごすほど、ますます、イエス様が、どのようなお方であるかを、理解し、正しく知り、認識できるようになります。

私の場合は、イエス様を 17 歳の時に知り始め、今に至るまで、イエス様のことを、ますます発見して、正しく知り、認識が深められ続けています。

皆さんは、おいしい食堂や、レストランに行ったら、今度は、家の人や、お友達に、「あの店に来て食べて見て。そうしたら分かるから」と勧めないでしょうか。アンデレさんは、ガリラヤ湖の西側の町であるカファルナウムに住んでいて、兄弟のペトロさんに、「私は、救い主・メシアである人に出会った」と伝えました。

メシアとは、ヘブライ語で、ギリシア語では、キリストです。そして油注がれた人という意味です。神様の民を導く為に、神様から選ばれ、任命を受けた、祭司や預言者や王は、そのしるしとして、オリーブオイルを、頭に注いで、任命されました。イエス様は、ただ一人で、祭司、預言者、王の三つの職を、全部任命されたメシア・救い主です。

ペトロさんは、最初シモンという名前でしたが、岩を意味するペトロという名前に、イエス様は変られました。ペトロさんは、最初から、岩のように強い人ではありませんでした。間違いもよく犯し、イエス様のことを知らないと三度も否んでしまう弱いシモンでした。しかし、イエス様は、将来、神様にあって成長する姿を望み見て、召し出してくだいます。それは、ペトロさんだけでなく、私たち人のひとりに対しても、同じです。

次に招かれた人は、フィリポさんは、アンデレさんやペトロさんと同じ故郷であるベトサイダの出身です。フィリポさんは、イエス様が直接お会いして「わたしに従いなさい」と招かれました。私たちの中で、聖書を読んでいて、イエス様に直接、招かれた人もいるでしょう。それはご聖霊なる神様のお働きです。

先日研修で行きました、インドネシアのジャカルタは、イスラム教を信じている人が、87 パーセントと多い場所ですか。しかし世界の中で、イスラム教を信じている人が、ある日突然、イエス様が現れて、「私を信じて、従って来なさい」と言われる人が、多くいると言われます。

さらにフィリポは、ナタナエルという人に「わたしたちは、モーセが、旧約聖書の律法に記し、預言者たちも書いている方・メシア・救い主に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエス様だ」と伝えました。するとナタナエルは、ナザレから何か良いものがでるだろうか」と疑いました。

私たちの中でも、最初は、イエス様が、神の御子・救い主だと聞いても、偏見や誤解や疑いが起きた人もいるでしょう。フィリポもナタナエルに「来て、見なさい」と言いました。来て見たら、分かります。私たちも、イエス様のところに来たら、分かるのです。

イエス様は、天と地とを、父なる神様と私たちを、梯子のように橋渡しする為に、神様でありながら、人となられました。このイエス様を、人々から聞き、また御言葉を通して知り続け、御言葉に従い経験し、ご聖霊と信仰を通して、ますます深く知り、理解し、信頼し、受け入れ、従って行くことが出来ますように。

あなたは、今まで、何人の人に、あなたとイエス様との関係について、語ったでしょうか。おいしいお店で、食べて、「あなたも来て見て」と伝えるように、イエス様を知り信じ、素晴らしい恵みを受けたなら、あなたも、「来て、見て」と伝えて行きませんか。

イエス様が、この地上に来られた神の御子・救い主です。その本質と目的を知る為の、霊的な洞察力を、さらにご聖霊様に、求めて行きませんか。そしてイエス様の愛を受け留めたなら、私たちも、愛を示しながら、イエス様のことを、「来て、見て」証しして行きませんか。

最後に、リュ・ボジュンという方の「かけうどん一杯の愛」受け留めます。「私が、高校1 年生の時、父が白血病で亡くなりました。その後、家計が傾き、生活が苦しくなりました。通学の電車賃がないことも、しばしばでした。そんなときは、仕方なく、市役所で働いてい

た叔父の所へ向かいしました。

気軽に行ったわけではありません。甥が訪ねて行くと、いつも親切にしてくれましたが、市役所の運転手として勤めていた叔父も、あまり余裕がないことを知っていたからです。訪ねて行くのは、たいてい夕方でした。狭い運転手待機室にいた叔父は、喜んで私を迎えてくれました。

そして、あちこちに電話して『上の人たち』の退勤時間を確認してから、市役所裏の、古びた食堂に私を連れて行ってくれ、かけうどんを、注文して、『さあ、食べなさい』と言いました。その一言に涙があふれそうになりましたが、私はうどん一杯を、あっとう間に平らげました。その間、叔父はしばらく席を外しました。後で分かったことですが、同僚の運転手に、お金を借りに行っていたのでした。

しばらくして戻って来た叔父は、食べ終わって座っている私に、いくらかの小遣いをくれました。帰り道、私は市役所前のバス停まで、後ろを振り返ることができませんでした。顔が涙で、ぐしょぐしょになっていたため、叔父を見ることができなかったからです。

聖書の中で、困難な時期を、ともに乗り越えた者たちの、情と愛が込められた御言葉を見ると、私の切ない思い出も、よみがえります。神様が送ってくださった、誰かを通して、『私は愛されている』と感じた人は、勇気と力を得ることができます。私たちの人生において、

『神聖な愛の足跡』を残すことは、実にきよく霊的なことなのです。」

神様に愛されている皆さん、イエス様は、先ず私たち一人一人に目を留めて、弟子として招かれます。あなたも、イエス様の所に来てみませんか。そしてイエス様の愛に満ち溢れて、私たちも、「来て、見て」と愛を示しながら、イエス様の所に、人々を連れて来ませんか。

お祈り致します。



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