2023.7.30サムエル記上 2 章 12~36 節「堕落か成長か」
- CPC K
- 2023年8月15日
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牧師 松矢龍造
起
全世界を祝福する為に、イスラエルの民は、約束の地であるカナンに導かれました。そ
こが、陸伝いで、ヨーロッパやアジア、アフリカに、神様の祝福を届けることが出来る場所であったからです。
悪魔は、それを阻止する為に、どうしたか。それは、神様に仕える者の家庭に狙いをつけました。そして何とか、この家庭を破壊しようと試みます。今日の御言に登場する祭司にして、士師でもあるエリの家庭も、その標的となりました。
祭司として仕えるエリの息子たちが、祭司の務めを受け継ぎました。しかし神様と人との間に立つべき祭司が、罪を犯すなら、その罪は決定的なものとなります。それは、単なる一族の滅亡以上に、祭司制の限界や崩壊の危機に関わる重大なこととなります。
私たちも同じですが、罪の影響は、罪を犯したその本人だけでなく、その影響が家族や関係者に及んで行きます。それは、昔も今も変わりません。そしてその立場が、大切であればあるほど、その罪の影響は、共同体全体に広がってゆきます。
承
祭司エリの子どもたちの堕落と罪に対して、サムエルの成長が、交互に対比する形で、今日の御言葉が進んでいます。それは私たちに読者に対して、あなたは、堕落の方に向かうのか、それとも健全な成長に向かうのか。あるいは、あなたの家庭は、裁かれる家系となるのか、それとも祝福された家系となるのか。それは、私たち自身が、どちらを選ぶかに関係して行きます。
そしてその選択は、私たちが、神様と共に歩むか否かにかかっています。イ・ジュヨンという方の「愛によって神様と共に歩む」という中で、こんな詩があります。「神様と共に歩めば、神様への愛が深まります。神様と親しくなれば、神様に仕えることで、神様の働きをするようになります。
神様に仕える思いで働く人は、何も誇らず、謙遜に神様の御心に従うことができます。神様が委ねてくださった働きは、自分自身のためのものではなく、神様の御心を成し遂げるためのものだからです。神様を愛しさえすれば、愛によって導かれます。」
転
今日の御言葉であるサムエル記上 2 章 12 節「エリの息子はならず者で、主を知ろうとしなかった。」信仰的な環境に育っても、当人が自分で、その気にならないかぎり、神様の恵みは、一向に分かりません。エリの息子たちは、父親と共に、祭司の働きをしました
が、人々のいけにえを、神様の御心に従わず、律法に反して、自分の腹を優先しました。
エリの息子たちは、人々の捧げものを盗み、捧げた人々の悔い改めの態度を台無しにしました。具体的には、人々が供えた動物の脂肪は、神様のものとして焼いて煙にしなければなりません。ところが、エリの息子たちは、それを自分たちのものとして、主への供え物を軽んじました。
これに対して、エルカナとハンナ夫妻が、エリのもとへと捧げたサムエルは、主の御前に仕えて成長して行きました。母は、サムエルの為に、毎年、主の御前で仕える為の亜麻布のエフォドを縫って、届けました。するとエリは、この夫婦に言いました。20 節「エリはエルカナとその妻を祝福し、『主に願って得たこの子の代わりに、主があなたにこの妻による子どもを授けてくださいますように』と言った。こうして彼らは家に帰った。」
祭司エリは、エルカナとハンナ夫妻が、神様への誓いを果たしていると、理解していました。けれど、どのように祝福されているかを知っているのは、神様だけです。主の御前に捧げつくしたハンナに対して、主は 500%の祝福をもって報いられました。すなわちハンナは、後に身ごもって、息子を三人、娘を二人産む恵みに預かりました。サムエルを捧げた結果、五人の子どもたちに恵まれたのです。
続いて、祭司エリの息子たちは、捧げ物を冒涜していたばかりでなく、臨在の幕屋の入り口で、神様に仕えていた女性たちと、不品行を重ねる罪も犯していました。これを聞きつけた父親にして、祭司長のエリは、どうしたのか。
23~25 節「彼らを諭した。『なぜそのようなことをするのだ。わたしはこの民のすべての者から、お前たちについて悪いうわさを聞かされている。息子らよ、それはいけない。主の民が触れ回り、わたしの耳にも入ったうわさはよくない。人が人に罪を犯しても、神が間に立ってくださる。だが、人が主に罪を犯したら、誰が執り成してくれよう。』」
ところが、エリの息子たちは、父の声に、耳を貸そうとしませんでした。エリが非常に年老いるまで、息子たちを甘やかして来てしまいました。すなわちエリは、息子たちの、罪深い生き方を放置してきたのです。それは神様よりも、自分の息子たちを大切にするという罪となりました。
私たちにとっても、人生や家庭や仕事において、間違っていると知りつつ、放置している状況はないでしょうか。それは、その悪行に加わった人間と、同罪となるおそれがあります。
親は子に対して、厳重で冷酷な扱いに陥ってもなりませんが、あまりにも寛大で、放縦に流れてなりません。人情にかまけて、真理を曲げるようなことがあってはなりません。もし曲げるなら、それは、神様より、その子を大切にするようになってしまっています。
イエス様は、マタイによる福音書 10 章 37 節 38 節で、次のように言われています。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」
エリは、善人ですが、その子に甘かったのです。箴言 13 章 24 節「鞭を控えるものは自分の子を憎む者。子を愛する人は熱心に諭しを与える。」この祭司エリの姿は、単に息子たちによって、自分の家の評判を下げただけでなく、祭司全体の評判を落としてしまいし
た。そして祭司制の限界や崩壊の危機に関わる重大なこととなって行きました。
主は、息子たちの命を絶とうとされていました。神様は、彼らの蒔いた種を、刈り取らせようと決意しておられました。ガラテヤの信徒への手紙 6 章 7 節「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」
エリ家は、祭司の家系としては没落して行きます。この後に、祭司の家系であるエリ家は断絶し、ツァドクの家系が、エズラの時代まで、祭司の家系として続いて行きました。
これに対して、少年サムエルは、すくすくと育ち、主にも人々にも、喜ばれる者となって行きました。まさに、エリの息子たちの堕落と罪に対して、主ご自身が、レビ族の流れをくむサムエルを求められたのです。
サムエルの成長の姿は、イエス様の成長されていった姿を予表するものでもありました。ルカによる福音書 2 章 40 節「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」2 章 52 節「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」
けれど、この後、祭司にして預言者にして、最後の士師となるサムエルの子たちが、また堕落して行きます。その中で、神の人・神の預言者が、エリのもとで預言した言葉があります。35 節です。「わたしはわたしの心、わたしの望みのままに事を行う忠実な祭司を立て、彼の家を確かなものとしよう。彼は生涯、わたしが油を注いだ者の前を歩む。」
ここで、「忠実」と訳された原文の言葉は「信頼する」あるいは「確かである」という意味でもあります。神様と人との間を、確かに、忠実に、贖いをなされて、真実に信頼できるお方は、誰でしょうか。これはツァドクの家系のことなのか。それ以上に、大祭司にして預言者、王となられたメシア・キリスト・イエス様のことなのかもしれません。
キリストだけが、真実に、神様と人との間を仲介できる唯一のお方です。新約聖書テモテへの手紙一 2 章 5 節 6 節「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。」
結
イ・ギスンと言う方の「愛の訓練を」を受け留めます。「聖書は、『鞭を控える者は、自分の子を憎む者。子を愛する者は、努めてこれを懲らしめる』箴言 13 章 24 節」と教えています。真の愛に基づいて、正しく懲らしめてこそ、義という平安の実を期待することかできます。
ユダヤ教は、法を犯した人に、次のような懲らしめを行いました。第一段階は、非公式な懲戒です。第二段階は、30 日間、共同体の宗教活動への参加を禁じ、その後も態度に変化がない場合は、30 日追加して懲戒します。第三段階は、無期限に集会から追放します。最終段階は、永久追放です。
懲戒の目的は、共同体全体の信仰の純粋性を確保することです。初代教会にも懲戒がありました。しかし、最近の教会から懲戒が消えてしまいました。そのため、信仰の純粋性と教会のきよさが、色褪せ、見かけの敬虔はあっても、力が失われています。
わが家の長女が、6 歳の時、嘘をついたので、厳しく叱ったことがあります。涙の痕が残っている娘の寝顔を見ながら、私も涙がこぼれ、『父なる神様。この娘を正直な子にしてください』と祈りました。
次の日の午後、下校した娘に、ごちそうを食べさせ、心の傷に触れることも忘れませんでした。家庭でも教会でも、神様との関係においても、罪人である私たちには、懲戒の鞭が必要です。罪が多くて、高慢な私たちを、謙遜できよい人へと、造り変えようとしておられる神様の愛の訓戒を、しっかりと受けたいと願います。」
神様に愛されている皆さん、私たち皆、不完全者たちです。愛と義なる神様は、私たちを、謙遜できよい人に造り変えようと、愛の訓戒をなさいます。その愛の訓戒を、しっかりと受け留めて、堕落でなく、主にあって成長して行く者とされて行きませんか。
最後に新約聖書ヘブライ人への手紙 12 章 5 節 6 節 11 節を拝読して閉じます。「また、子どもたちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。『わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけな い。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからであ る。」「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」お祈り致します。

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