top of page

2023.7.9サムエル記上1章1~2 節人間の移り変わりと不変の神様の真実」

  • 執筆者の写真: CPC K
    CPC K
  • 2023年7月14日
  • 読了時間: 9分

牧師 松矢龍造


今日の主日礼拝から、連続でサムエル記の連続講解説教となります。ながらく主日の礼拝で は、新約聖書からの説教が続きましたので、旧約聖書から説教することが導かれました。またサムエル記の連続講解説教は、今までなかったことでもあります。そしてこの世界は、まさに移り変わりますが、創造主なる神様は、永遠に不変なお方であり、その真実も変わることがありません。そのことをテーマにしているサムエル記が示されました。

中心聖句が二つあります。一つは、サムエル記上 8 章7~9 節です。「主はサムエルに言われた。『民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった。

あなたに対しても同じことをしているのだ。今は彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい。」

そしてもう一つは、15 章 22 節です。「サムエルは言った。『主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。』」

サムエル記から、私たちが、おもに学び取れる信仰の内容は、少なくても次の三つです。一つは、どのような人物が、神様に用いられ、どのような人物が退けられるのか。そのことが、鮮明に描かれています。二つ目に、神様の御旨にかなう王や王国が、どのようなものであるかを伝えています。そして三つ目に、人間である王の有限と転変を記すことによって、不変の神様の真実や、神様の民に対する変わらない愛を伝えています。

サムエル記上は、おもにサムエルと、サウルと、ダビデという 3 人の中心的な人物に従って、三つの部分に分かれています。1 章1節~7 章 17 節までは、サムエルについて述べられています。すなわちサムエルの子ども時代に始まって、幕屋で仕えるサムエルの姿。またペリシテ人との戦と、サムエルによる統治が展開されています。

続いて 8 章 1 節~15 章 35 節までは、イスラエルの初代の王とされたサウルのことが記されています。すなわち民が周辺諸国のように王を嘆願し、サウルの即位が記されています。またサムエルが、神様への従順を民に勧めたこと。そしてサウル王の不従順と失脚が続きます。

そして 16 章 1 節~31 章 13 節には、ダビデのことが展開されています。すなわちダビデの王としての選びと、サウルが、ダビデを敵視することや、ダビデの逃亡。そしてサウルとその息子たちの死をもって、サムエル記上が閉じられています。

サムエル記は、本来一つの書でした。しかし一つの巻物に納めるには、長すぎるために、上下に分けられました。サムエルと、サウルと、ダビデという 3 人の人物の生涯がおもに語られていますが、この 3 人が、人間的な弱さを持っているにもかかわらず、いかにイスラエルを強力な国家に変えられて行く為に用いられたかに焦点が当てられています。

私たちにとっては、私たちも弱さや欠けや醜さを持っているにもかかわらず、主が用いてくださって、家庭や教会、社会や国や世界の為に用いて下さる。そのことに対する信仰的な示唆が与えられる書となっています。

執筆の目的は、サムエル記上には、古代イスラエルの初期の王たちが、神様に選ばれた経緯が記されています。王政になる前の約 200 年間は、イスラエル 12 部族の穏やかな連合体でした。そして緊急時には、神様に選ばれた士師と呼ばれる指導者が現れて統治しました。

しかしイスラエルは、新しい形の指導者、すなわち他の国々に見られるような、強力な政治的な権力を持つ、王を求めるようになりました。その背景には、祭司にして士師であったエリやサムエルの子どもたちが腐敗していたことがあります。最後に士師となったサムエルは、民のそうした要求に応えなければなりませんでした。

しかし王を求めることは、創造主なる神様が王であると信じるイスラエル古来の信仰に反するとも言えます。出エジプト記 15 章 18 節には、「主は代々限りなく統べ治められる。」とあります。また申命記 33 章 5 節にもこうあります。「民の長たちがイスラエルの諸族と共に集うとき、主はエシュルンの王として臨まれる。」

ですからサムエル記上には、このような人間が王となる王政に批判的な記述と、好意的な記述が、入り混じっています。創造主なる神様は、最終的には、イスラエルに王を立てることに同意されます。

しかし人間の王政は、民の生活に大きな変化をもたらしますが、その全てが良いものでないことを、神様はあらかじめ知っておられました。神様に第一に従うという約束は、人間の王が選ばれた後も、保持されるように、神様は民と王に呼びかけ続けておられます。

後に、イスラエルの最初の王として立てられたサウルは、創造主なる神様に従いませんでし た。そればかりでなく、神様から退けられたのに、王に固執して、新たに神様が選ばれたダビデを殺そうとしました。

しかし二番目に選ばれて王とされたダビデといえども、神様に従わなければならないことを、何度も後に学ばなければなりませんでした。エリにしても、サムエルやサウル、そしてダビデにおいても、神様に背く時、悲劇的な結果に直面しました。それは現代の私たちとて、同じです。 背景としては、紀元前 BC1080 年から 970 年、つまりサムエルの誕生から、ダビデの死までの

1 世紀余りの期間のことが記されています。これに先立つ、士師記の時代は、イスラエルが約束の地であるカナンを征服した後、無法状態に陥っていたことが記されています。

士師記の最後の言葉となります 21 章 25 節にはこうあります。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」

こうしたイスラエルの内乱に加え、当時は、イスラエルのすぐ西側の地中海沿岸にすむ好戦的なペリシテ人の軍事的な脅威に常にさらされていました。現在は、イスラエル人とガザ地区に住むパレスチナ人との抗争が続いていますが、このガザ地区がペリシテ人の中心的な土地でした。

サムエル記上の冒頭では、イスラエル 12 部族連合は、敵であるペリシテ人の持つ鉄製の武器によって、脅威にさらされていました。しかしサムエル下の終わりでは、ダビデが強力な統一国家の王となり、ペリシテ軍は、なりを潜めるようになってゆきました。

ダビデ王は、国家統一と軍事面で成果をあげただけでなく、この時期に、イスラエルの信仰には、目覚ましい発展が見られました。サムエル記上には、イスラエルの民が、年に何度も集まって、神様に礼拝を捧げました。また献げ物をしていたことが記されています。

そしてサムエル記下の終わりには、エルサレムが礼拝の中心地となり、ダビデが祭壇を築いたことが記されています。後に、ダビデの子であるソロモンが、そのつい暖の場所に、壮大な神殿を建てることになります。

むしろ国家の統一は、創造主にして救い主である神様に礼拝を捧げ、この主なる神様に聴き従うところに、心の内外、国の内外に、平安が与えられる秘訣です。私たちも、まさに個人と家 庭、教会と国家の内外に一致と平安を得たいのであれば、主なる神様に、ご聖霊の助けと導きを祈り求めて、主に聴き従うことであることは、まったく変わっていません。

それでは、今日の御言葉であるサムエル記上 1 章 1 節もう一度。「エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに一人の男がいた。名をエルカナといい、その家系をさかのぼると、エロハム、エリフ、トフ、エフライム人のツフに至る。」

エフライムは、エフライム族に委ねられた地域のことです。イスラエル 12 部族のうち、ヨセフ族は、エフライムとマナセの二つに分かれていましたので、ある面では、13 部族の様相でした。けれど、エフライムとマナセが、一つの部族と数えられる場合もあります。あるいは、祭司として仕えたレビ族には、一つの民族として、一か所の嗣業地が委ねられませんでした。それで嗣業地として 12 部族に数えられなかったとも言えます。

ラマタイムとは、エルサレムの北約 8 ㎞にありますラマの別名です。サムエルの父エルカナは、エフライムに住む、レビ部族の子孫です。レビ部族は、イスラエル 12 部族の各地に、散らされ住んでしました。それは、主なる神様を恐れ敬うように、各地で神様の御言葉を語り、執り成しの祈りをする為に、それぞれに置かれていました。

新約的に言えば、キリスト者は、各地に派遣され、置かれて、人々の為に執り成し、キリストを証しする存在とされています。いわばキリスト者は、霊的なレビ人です。

続いて 2 節「エルカナには二人の妻があった。一人はハンナ、もう一人はペニナで、ペニナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。」

結婚において、一人の夫と人の妻が結ばれる一夫一婦の制度は、最初から神様の意図されたものでした。創世記 2 章 24 節「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」男も女も原文では単数です。加えて、二人が一体となるとは、3 人以上には当てはまりません。この原則が破られる時、必ず家庭は乱れます。そこで苦しむのは、敬虔で信心深い女性です。

アブラハムとヤコブ、またダビデなどには、複数の妻がいました。これは本来の神様の意図された結婚のあり方ではありませんでした。周辺諸国の重婚は、男性の仕事を手伝う子孫を、より多く生むため、あるいは男性の家系を確実に存続させるため、そして多産は地位と富の象徴とされたこともあります。

加えて、多くの若者が戦闘で死ぬ社会では、未婚のまま生活苦に陥るおそれのある女性たちの支援策として、重婚の制度が受け入れるようになっていました。

それでも、このハンナとペニナに起きていたことは、一夫多妻は、しばしば深刻な家庭問題の種となりました。

神様が評価されることは、私たちの従順です。世のあり方や、自分の肉の願望ではありませ ん。そして私たちの人生における困難な状況や、待つ時間は、しばしば私たちを、洗練し、信仰的に教育し、神様が後に、私たちに課す責任や使命に対して備えさせます。

あたなも、神様が最も喜ばれることは、主の御心に聴き従うことであると受け留めて、ご聖霊の助けを祈り求めて、主に聴き従って行きませんか。

最後に、もう一度、サムエル記上 15 章 22 節を拝読して閉じます。「サムエルは言った。『主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。』」

お祈り致します。


コメント


この投稿へのコメントは利用できなくなりました。詳細はサイト所有者にお問い合わせください。

私たちの教会はカンバーランド長老キリスト教会に属するプロテスタントのキリスト教会です。

エホバの証人(ものみの塔)、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)、統一教会などとは一切関係ありません。

〒241-0825 横浜市旭区中希望が丘72-2  TEL 045-391-6038 ✉:kibogaokachurch@gmail.com

​お気軽にお問い合わせください。

  • Facebook
  • YouTube

© 2021 Kibogaoka Church, Cumberland Presbyterian Church

bottom of page