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2023.8.13サムエル記上3 章 1~21 節「主よ、お語りください」

牧師 松矢龍造


創造主して救い主なる神様は、私たちに語り掛けられるお方です。自然を通して、歴史を通して、聖書を通して。あるいは神様の僕や、艱難を通して、疫病や、生き別れや、死別を通して、その他のことを通して、私たち一人ひとりに語っておられます。 問題は、私たちの側で、それを聞き分け、また見分ける心の備えがあるかどうかです。今日の御言葉において、サムエルは神様からの語り掛けを受けた時、応えました。10 節「主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。『サムエルよ。』サムエルは答えた。『どうぞお話しください。僕は聞いております。』」 「お話しください」と訳された言葉は、原文では、「宣言する」あるいは「命じる」「約束する」という意味でもあります。それは特別な神様からの語り掛けであるということです。 これはサムエルだけでなく、主は、創造された全ての人間に対して、名を呼んで、呼びかけて おられます。イザヤ書 43 章 1 節「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」 サムエルは、何度も自分の名前が呼ばれていることを聞きました。この時は、12 歳位と思われます。名前を何度も呼ばれるのは、注目を引くことの強調です。また語りかる相手に対する愛情です。そして特別な関係であるあることの強調と共に、特別な使命が与えられていることの表われでもありました。 ルカによる福音書 10 章 41 節「主はお答えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。』」 使徒言行録 9 章 4 節「サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。」 主は、私たち一人ひとりに対しても、名を呼んで、語り掛けておられます。問題は、私たちの側に、聞き分け、見分ける、心の備えがあるか否かです。転 それでは、今日の御言葉 3 章 1 節をもう一度。「少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。」 神様の御言葉や啓示は、旧約時代は、言葉や幻や夢を通して示されました。そして預言者にして指導者であったモーセの時代、神様の言葉は、モーセの口を通して語られ続けました。しかしその後、サムエルの時代になるまで、まれにしか、直接の神様の言葉は臨まず、主の使いが現れたり、主の僕が幻を見たりすることもありませんでした。 特に、この頃の士師の時代には、約 300 年間、神様の声を聞いたとか、その黙示を得たという例は、ほとんどありませんでした。それは、神様の御言葉を聴き分け、また見分ける人が少なかったからです。すなわち、神様の御声を聴く、心の備えのある人が少なかったということです。 しかし心の備えのある人には、神様は「静かな細き御声で語られます。列王記上 19 章 12 節「地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」 今の時代、あるいは日本の状況は、御言葉に聴くことの飢饉と言えるかもしれません。アモス書 8 章 11 節「見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ、飢えと渇きだ。」 そして神の御言葉を聴くことがない民は、わがままになり、また将来への指針を失ってしまいます。箴言 29 章 18 節「幻がなければ民は堕落する。教えを守る者は幸いである。」イスラエルは、形式的には、信仰を持っているふりをしていましたが、形式だけの信仰は空しいです。 私たちは、時々、人を避けて、一人密室に退き、神様と直面して、私自身への神様の御言葉を聴くことが必要不欠です。そして神様の御旨を伺い、さらに神様の力と導きを受けることを大切することが重要です。6月に行きましたジャカルタ・プレイズ・コミュニティ教会では、一人ひとりが、毎日、個人的にキリストと交わることを強調していました。 私は、毎日、一日一章として、聖書の御言葉を先ず朝、一章読み、黙想ノートを記すことを、40 年以上続けています。さらに、時々、退いて、御言葉と祈りを通して、神様と交わり、特別な黙想を記す時を持つことの大切さを、強調しています。先日のジャカルタ研修ツアーでは、行きと帰りの飛行機の中や、ホテルの深夜か早朝に起きて、御言葉と祈りと黙想ノートを記す時を、多く持つことが出来まました。それは研修に加えて、神様との個人的な交わりとの時という恵みでした。 サムエル記上 3 章 2 節3節「ある日、エリは自分の部屋で床に就いていた。彼は目がかすんできて、見えなくなっていた。まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。」 エリは祭司であり士師ですが、個人的に神様からの語り掛けがありませんでした。エリは、神様への直接の奉仕を求めるあまり、自分の家族を無視してしまいました。それは家族を苦しめることになり、また群れ全体へと影響して行きました。エリは、イスラエルで行われる全ての礼拝を監督する使命がありましたが、家庭を治めることが出来ませんでした。それは指導者として反面教師の姿となっています。 仕事と共に家庭を良く治めることが大切となります。その人格と言葉と、二つのものが相まって、神様の真理と恵みを証しするものであることが必要となります。テモテへの手紙一 3 章 1~5節「『監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる。』だから、監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。 また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子どもたちを従順な者に育てている人でなければなりません。自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。」 一方サムエルは、神の箱が安置された主の神殿に寝ていました。ここで神殿と言われているのは、人々がいけにえを捧げて、神様を礼拝していた場所のことを言っており、当時は、建物としての神殿はまだ出来ておりませんでしたから、幕屋を指します。サムエルは、神の箱が置かれた場所で、しかもエリの近くで寝起きをしておりました。 ところがエリには、神様からの語りかけがなく、サムエルのみにありました。これはサムエルに対する預言者としての召命でもありました。ですからサムエルが、預言者活動を始めたのは、この時、12 歳の時からでした。サムエルは、一度、二度、三度、主から名を呼ばれましたが、最初は、主からの言葉と気が付かず、エリ先生が呼ばれたと勘違いをしていました。 エリは、やがて気づき、これは、神様がサムエルの名を呼んで語り掛けられていることに気づきました。そして主が三度目に、サムエルを呼ばれた時、エリはサムエルに伝えました。8節 9節「主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、『お呼びになったので参りました』と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに言った。『戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、「主よ、お話しください。僕は聞いております」と言いなさい。』サムエルは戻って元の場所に寝た。」エリは個人的には、善良な人でありましたが、主はエリに対しては、聴く耳のない者として、語らず、聴き耳のあるサムエルに語られました。ですから、私たちも、主の御言葉を聴く姿勢を、襟を正して、自己吟味が必要となります。マタイによる福音書 13 章 9 節「耳のある者は聞きなさい。」

続いて 11 節「主はサムエルに言われた。『見よ、わたしは、イスラエルに一つのことを行う。それを聞く者は皆、両耳が鳴るだろう。』」両耳が鳴るとは、災いの出来事を耳にする時の表現です。そしてエリ家に対する裁きに関しては、恐れと驚きの故に、耳鳴りを起こすほどのものでした。

エリの息子たちが、神様を冒涜する罪と、それを知りながら、結局は黙認する親としての罪や、大祭司としての咎は、償うことが出来ない段階となっていました。そしてエリの一族への裁きとなります。

主は、忍耐深くあられ、長く忍ばれるお方ですが、神様の時が来れば、確実に裁かれるお方でもあります。ペトロの手紙二 3 章 9 節「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」

主は怒るのに遅い方ですが、神様の時には、その御怒りを注ぎ出されます。詩編 103 編 8 節「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい。」エリは、先に神の人・主の預言者から聞いたものと、サムエルから聞いた言葉が、同じものであったので、エリは、そのまま認めて受け入れる他にありませんでした。

神様は、神様と共に歩む者に、権威ある神の言葉を語られます。そして聴く者の、人格と言語と二つが相まって、神様の恵みと真理を、証しする者となることを願っておられます。

6月に行きましたジャカルタ・プレイズ・コミュニティ教会は、宣教の困難なイスラム圏のインドネシアにおいて、このことを大切にしておられました。私たちも、ご聖霊によって、「僕は聴いております。主よ、お語りください」と祈りつつ、神様の言葉を聴く者となって行きませんか。そして、クリスチャンの皆さんは、人格と言葉が相まって、神様の真理と恵みを証しする者となって行きませんか。

最後にヨエル書 3 章 1 節を拝読して閉じます。「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。」お祈り致します。







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