2023.8.2箴言 15 章 1~9 節「癒しをもたらす舌」
- CPC K
- 2023年8月15日
- 読了時間: 7分
牧師 松矢龍造
起
今日の御言葉には、言葉や舌に関する言及が多いです。それで、言葉の上に表された知恵ある人と、愚かな者に関して、集中して取り扱うことに致します。
私たちは、物心つく頃から、言葉で表現してゆきます。それは聴いた言葉を学習して、用いることになってゆきます。そこで、良い言葉を多く聴くなら、良い言葉が多くなり、悪い言葉を多く聴けば、悪い言葉を語りやすくなります。そして、一切悪い言葉を語ることがない人はいません。それは人類が堕落していることの表われでしょう。
私たちは、ある時、誰でも、「そんな言葉づかいをしてはいけません」と一度は、聞かされて来たのではないでしょうか。その際に、その叱責を心より聴くなら、繁栄しますが、叱責を拒むなら、心と生活は、さらに悪くなってゆきます。箴言 15 章 5 節「無知な者は父の諭しをないがしろにする。懲らしめを守る人は賢明さを増す。」
承
アメリカの大統領の一人であるジミー・カータ氏の例です。日本に来られた際に、記者団からの質問の一つに「あなたのこわいものは何ですか」というものがありました。するとカーター大統領は、「父親です」と答えたと言います。子ども時代を思い出されて、ある日曜日、教会で「献金をするのだよ」と 1 セント、父親からもらったカーター少年は、献金しないばかりか、献金皿から、1 セント銅貨を、失敬してしまいました。
家に帰って、上着を脱いだ時、1 セント銅貨二枚が、お父さんの目の前に、コロコロところげ出ました。クリスチャンのお父さんは、それこそ、きびしく懲らしめて、スパンクしたいというのです。カーター少年にとって、そんな涙ながらに叱責をしてくれたお父さんが、なつかしく、うれしく、ありがたかったのです。
人は、叱責や懲らしめられることは、きらいです。自分勝手に、わがままに生きていることを、真正面から指摘されると、反発したくなります。しかし、親身になって叱ってくださる方の、愛と真実の前に、素直に悔い改めて、従う人は、成長し、賢明さを増します。けれど父の諭をないがしろにするなら、さらに無知になり、言葉と生活がさらに悪くなってゆきます。
転
箴言 15 章 1 節「柔らかな応答は憤りを静め、傷つける言葉は怒りをあおる。」喧嘩や口論は、しかける者と、しかけられる者がいて、両方の同意なしには、出来ません。それで、しかけられた者が、とりあげて、相手にしなければ、案外たやすく、喧嘩や口論を避けることが出来ます。
創世記に登場してきますヤコブという人物は、騙してしまった兄との葛藤を避ける為に、主に心砕かれて、自らの非を覚えながら、下手に出て謙遜に、物を言ったので、エサウの怒りを避け得ました。創世記 33 章3節 4 節「ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。」
また士師のギデオンは、柔和な言葉で、エフライム人に接して、争いを未然に防ぐことが出来ました。士師記 8 章 1~3 節「エフライムの人々はギデオンに、『あなたはミディアンとの戦いに行くとき、わたしたちを呼ばなかったが、それはどういうことか』と言って、激しく彼を責めた。
ギデオンは答えた。『あなたたちと比べて、わたしが特に何をしたというのか。エフライムに残ったぶどうは、アビエゼルが取ったぶどうよりも良かったではないか。神はミディアンの将軍オレブとゼエブをあなたたちの手に、お渡しになったのだ。あなたたちと比べて、わたしに特に何ができたというのか。』彼がこう語ったので、彼らの憤りは和らいだ。」
けれど、私たちは、どんなに激しい非難や侮辱や高慢な独り善がりの言葉をかけられても、いつも穏やかに答え、平和な返事が出来るでしょうか。私たちの心から流れるものは、どんなものでしょうか。ある方が次のように言われていました。「一度や二度、人間的な計算から、『まあまあ』と柔らかく出ることができても、『常に、心から』というわけにはいきません。激しい言葉には、激しい言葉を返さないと、損をしたように思ってしまいます。」
そしてこんな例をあげておられました。山形の飲み屋で、高校の先生が刺殺された事件がありました。戦中派であった高校の先生が、「今の若い者はなっていない」と言い始めました。ところが隣の若者が、「何をっ」と反論し、「外へ出ろ」ということから、ついに刺し殺すまでの喧嘩になってしまいました。
「売り言葉に、買い言葉」といいますが、激しい言葉は、油に火をつけたように、そのままでは、怒りの炎を燃え立たせます。「まあまあ、先生」とか柔らかな言葉で、受け答えしていたなら、何ということもなかったでしょうに。
その為には、心に、ほんとうの和らぎや、満足がないと、喧嘩や口論になってしまいます。主は先ず、私たちに対して、どうしてくださったかを覚えることが大切になります。出エジプト記 34 章 6 節7節「主は彼の前を通り過ぎて宣言された。『主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち』」とあります。
主が先ず、私に対して、忍耐の限りを尽くし、主イエス様の十字架の慈しみをもって、接してくださっています。さらに神様から、人知に勝る平安を頂き、柔和の賜物を頂くことです。イエス様は、「平和をつくり出す者は、幸いである」と言われました。
続いて箴言 15 章2節3節「知恵ある人の舌は知識を明らかに示し、愚か者の口は無知を注ぎ出す。どこにも主の目は注がれ、善人をも悪人をも見ておられる。」
私たちが、どんな言動をしたか、主は全てを見ておられます。愚か者や悪人は、その言動を隠しておくことは出来ません。創造主なる神様は、全知全能の神様です。私たちと人間の絶えざる監視者でもあります。
羽鳥明という方の例に、つぎのようなものがありました。「私の友人の益田泉さんは、戦後、シベリアの強制収容所に入れられて、心も体も、凍てつくような苦しい経験をされました。森林伐採の強制労働に耐えられず、次々と死んでいく人の死体を、埋めようとしても、凍てついた土地を掘ることもできなかったそうです。
そんな苦しい日々に、子どもの頃覚えた『主の祈り』を、いつも唱えたそうです。すると不思議に、『一人じゃない。神様がじっと私のことを見ていてくださる』と分かったそうです。日本に帰ってから、クリスチャンになり、教師になり、たくさんの寂しい人、苦しんでいる人の友となっていらっしゃいます。」
主は全てを見ておられます。そんな中で、自分の弱さ、罪深さを感じる心となって、謙遜な心で、主の御前に出るなら、私たちの心は砕かれるのではないでしょうか。詩編 51 編 18 節 19 節「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」
続いて、箴言 15 章 4 節「癒しをもたらす舌は命の木。よこしまな舌は気力を砕く。」ここで、「癒しをもたらす」訳された言葉は、「穏やかな」あるいは「優しい」とも訳せる言葉です。穏やかに、優しく語りかけることを通して、心が健康になり、癒されて行きます。
しかし「よこしまな」言葉なら、気力を砕きます。「よこしまな」と訳された言葉は「偽りの」「不平な」「乱暴な」という意味でもあります。むしろ新約聖書は、「塩気のきいた言葉」がふさわしいと言われています。コロサイの信徒への手紙 4 章6節「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。」
結
私たちの言葉や舌は、心から出てきます。ですから、心の中に、先ず神の言なるキリストを入れることです。そしてご聖霊によって、祈りを通して、言葉を神様との間に、かわすことです。神様との会話の中で、傷んだ心が、イエス様の十字架の愛と、復活の力で、包まれることです。
そして主から、語るべき真理と愛の言葉を頂くことです。箴言 15 章 7~9 節「知恵ある人の唇は知識をふりまく。愚か者の心は定まらない。主は逆らう者のいけにえをいとい、正しい人の祈りを喜び迎えられる。主は逆らう者の道をいとい、従うことを求める人を愛される。」
正しい人とは、神様を正しいと認める人であり、神様の正しさが実現することを心から期待する人のことです。主の恵みと愛に包まれて、主の正しい言葉を受け留め、正しいことを語ることが出来ますように。
これに対して、愚か者や、悪者とは、神様を度外視し、問題にしないで、自分中心、自分の欲望中心だけに生きる人のことです。旧約時代のアカンという人の貪りの罪に対する神様の裁きを思います。
あなたも、主の御前に、心貧しくなり、心砕かれ、ご聖霊によって、愛をもって真理を語る者とされて行きませんか。お祈り致します。

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