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2023.8.9箴言 15 章 10~21 節「主を恐れ敬う人」

牧師 松矢龍造


神様は、時に、私たちを、懲らしめたり、叱責されたりします。けれど、それを嫌い、御言葉を遠ざけたりします。あるいは、人は、しばしば叱ってくれたり、指摘してくれる人を受け入れず、遠ざけたりしやすいです。

今日の御言葉である 12 節にこうあります。「不遜な者は懲らしめられることを嫌い、知恵ある人のもとに行こうとしない。」以前、アメリカのロサンジェルスにありました、ガーデン・グローブ・コミュニティ教会の栄枯盛衰に学ぶという研修の時がありました。

現地の教会は、クリスタルチャペルとして、一世を風靡した教会でした。ところが、現在は、カトリック教会に売却され、日曜日には、そこでカトリック教会の礼拝の為に使われますが、平日は、結婚式場となったり、一般の観光客を受けいれる場所になったりしています。

どうして衰退してしまったのか。その原因の一つは、創設者が、教会が栄えている時に、説明責任を果たしていませんでした。そして叱責してくれる存在を遠ざけました。その結果、創設者が召される時は、借金の返済が出来ずに、売却せざるを得なくなってしまいました。まさに、懲らしめられることを嫌い、知恵ある人のもとに行こうとしなかったことが、衰退へと繋がってしまいました。

さらに人ばかりではありません。神様は、時に、事故や病気、出来事や御言葉を通して、私たちを懲らしめたり、叱責されたりします。素直になって、その懲らしめや叱責を受け入れる者は、成長して行きますが、あくまでも嫌い、知恵から遠ざかるなら、その先は、衰退や滅びとなってゆきます。ですから、常に人は、主を恐れ敬うことの中で、御言葉や出来事を受け留めていることが、必要不可欠です。

今日の御言葉の冒頭である 11 節はこうです。「陰府も滅びの国も主の御前にある。人の子らの心はなおのこと。」陰府とは、私たちが死後に、魂が行くとされる霊的な地下にあります死者の世界のことです。ただし永遠の刑罰として行く地獄とは別の場所です。陰府とは、最後の審判を受けるのを待っている場所といっても良いと思います。この陰府すら、神様の御前には、隠されていないとすれば、私たち人の心と行いは、なおさら隠されていません。全ては、全知全能の神様の御前に、明らかです。

12 節に「懲らしめ」と訳された原文の言葉は、「訓戒」「矯正」「訓練」という意味でもあります。私たちは、懲らしめや訓戒、矯正や訓練を嫌う傾向があります。神様は、全てをご存じで、私たちを義の道、救いの道に導く為に、あえて懲らしめや訓戒、矯正や訓練を、私たちを愛する故に、許されるお方です。

神様は、私たちの病気や失敗、挫折や孤独を通して、私たちの心の真ん中にまで、語られます。そして神様の叱責を、つらいですが、喜んで受け入れ、これに従う人の将来には、希望と平安と豊かな成長があります。さらに神様からの叱責を受けて、神様を愛して行く時、私たちは、大きな祝福を受け、また知恵ある人に近づくようになります。箴言 15 章 14 節「聡明な心は知識を求め、愚か者の口は無知を友とする。」

叱責を与える神様は、他方に、私たちの言動ではなく、私たちの存在に対して、無条件に与える愛、犠牲を払う愛で、私たちに相対してくださるお方でもあります。キリストの十字架の愛は、まさしく、そのような愛です。神様の愛に触れたなら、私たちは、自分の罪を告白し、お詫びを祈ります。それは、顔や霊に表れます。

箴言 15 章 13 節「心に喜びを抱けば顔は明るくなり、心に痛みがあれば霊は沈みこむ。」

続いて、15~17 節「貧しい人の一生は災いが多いが、心が朗らかなら、常に宴会にひとしい。財宝を多く持って恐怖のうちにあるよりは、乏しくても主を畏れる方がよい。

肥えた牛を食べて憎み合うよりは、青菜の食事で愛し合う方がよい。」

富によって、生活は楽になるかもしれませんが、真の魂の満足と平安は、神様への従順によって得られ、これに匹敵するものではありません。むしろ富を多く持つ金持ちの人生は、複雑で難しいと言われています。時には、信頼できない人たちとも、食事をしなければなりません。

16 節には、主を信頼するなら、富が少なくても、満足することが出来るとあります。足ることを知ることは、経済大国までなった日本にとっても、大切な教えではないでしょうか。使徒パウロは、富にも貧にも、キリストにあって対処し、満足する道を学んだと言っています。

フィリピの信徒への手紙 4 章 11~13 節「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」

富ではなく、愛こそが、人間にとって、最も大切なものではないでしょうか。愛がなければ、全ては空しくなり、愛がなければ、魂は生きて行けません。そして真の愛は、主イエス様にあります。ヨハネの手紙一 4 章9節 10 節「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

続いて 18 節「激しやすい人はいさかいを引き起こし、忍耐深い人は争いを鎮める。」怒りを遅くすることの大切さが語られています。怒りに正しく処するなら、自分と他の人に平和を造り出します。平和は、いつも神様の子として、ふさわしい行動です。

日本の8月は、特に戦争の愚かさと平和の尊さを覚えて、特に内外にキリストにある平和を祈る時です。マタイによる福音書 5 章9節「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」

続いて、21 節「意志の弱い者には無知が喜びとなる。英知ある人は歩みを正す。」あるお医者さんが、次のように言われていました。「人間は、死ぬものではなく、自殺するものです。酒、タバコ、塩分、運動不足、マージャンなど、人間は緩慢な自殺をしています。また週刊誌の内容は、酒、女、ギャブルなど、人間をだめにするものを、求めていることの反映です。」

意志が弱いなら、心の貪りに勝てません。ならば、人は緩慢な自殺へ向かい、また人間をだめにするものを求めることを止めません。しかしこれらのものは、心と魂に対して、本当の満足を与えることはありません。求めても限りないものは、欲望です。さらに現実が、厳しくてつらいと、逃げ出し、その逃亡先は、人をだめにするものに突っ走ります。

けれど、自分の意志力だけで対処出来るものではありません。人間の意志力に頼って失敗した一人は、弟子のリーダー格であった、ペトロでした。自分で十分やっていけるとして、祈らずに眠りこけて、大失敗をしてしまいしまた。けれど、主イエス様は、そんなペトロに対して、信仰がなくならないように、執り成してくださっています。そしてペトロに対してなされたご慈愛は、私たち、一人ひとりにも向けられています。

神様を恐れ敬わない人の心には、いつも不安と恐れがつきまといます。しかし主を恐れ敬う人には、常に真の平安と、魂の満足があります。最後に、キム・グァンソンとチェ・ビョンラクという方たちの「リーダーに必要な『それ』」を受け留めます。

「アメリカで、最も革新的な教会の一つとして数えられるライフチャーチのクレイグ・グローシェル牧師によると、成功する牧会者には、共通した『it(それ)』があるそうです。ここで用いられる『it』には、正直さ、忍耐、根気などが含まれていますが、一言で定義することはできません。

『霊的魅力』とも訳すことができますが、私はこれを、『神様に似た姿』と説明したいと思います。牧会者だけでなく、すべてのリーダーに、この『it』が必要です。牧会者が、教会で説教によって、神様の生きて働く御言葉を伝えるように、クリスチャンは、生き方によって、神様の愛と忍耐、憐れみを現さなければなりません。

たとえば、職場や家庭で、誰かと不和が起こったとしても、すぐに敵対することは、正しい態度ではありません。相手の考えに傾聴する姿勢が必要です。相手がいくら間違っていたとしても、心から謝罪したならば、受け入れることができなければなりません。正直で、率直な会話が行き交うことのできる窓口を、開いておかなければなりません。

これには、忍耐が必要です。ある人が『もう失敗はしない、うまくやれる』と約束しても、再び失敗することもあるからです。人の品性は、一日やそこらで変わるものではないため、『あの人は、もともと、ああなのだ』と認め、やりづらいことがあったとしても、日々忍耐して、ともに支え合わなければなりません。そうしてこそ、神様に似た品性を現わすことができます。その過程で、悔しかったり、寂しく感じたりすることがあっても、あきらめてはなりません。神様は、私たちの行いをすべて、ご存じだからです。」

神様に愛されている皆さん、どんな時も、主を恐れ敬い、忍耐を持って、叱責や、人を受け留め、日々、神様の品性に似た者として、御聖霊によって、変えられ続けて行きませんか。

お祈り致します。



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