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2023.9.13箴言16 章1818~33 節「謙遜で神様に従い続けた人々」

牧師 松矢龍造

先日の第二礼拝では、長寿者祝福式がありました。長寿者が、長年どのように生きて来られたかは、そのお顔やただすまいに表れています。今日の御言葉の中にも31 節「白髪は輝く冠、神に従う道に見出される」とあります。

神様の知恵に従って、正しく生きてきた者は、祝福された長寿者になるということです。神様は、敬虔で信心深く生き続けて来られた長寿者を祝福なさいます。

イザヤ書46 章4 節「同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」

先日、入院されている教会員の姉の息子さんから、「母がいよいよ最期が近づいて来たので、入院中の母の所に、牧師の訪問をお願いします」とあり行ってきました。そこで、このイザヤ書の御言葉などを朗読して祈りました。まさに主は、白髪になっても、変わらず負い、救いの完成へと運ばれるお方です。

老いても、なお希望や夢を見ることが出来る内容が、少なくても三つあると言われている方がおられました。第一に、老年になっても、生きる目的や生きがいを、神様がいつも与えてくださいます。第二に、神様に与えられた生きる目的が分かると、老年で寝たきりになっても、人に喜ばれ、神様に仕える仕事が与えられるものです。祈りは、その最大の、神様と人にお仕え出来る素晴らしい仕事の一つです。

第三に、神様と人の愛を受け、満足することが出来ます。第四に、神様の愛と輝きの胸のもとに帰る望みに満ちています。

長寿者を敬うのは、長寿者が多くの知恵と経験を持っているからだけではありません。その存在自体が、社会学的に見ても、生態系から見ても、霊的信仰的な事柄から見ても、もっと重要な意味があるからです。使徒ヨハネは、老ヨハネになるほどに、互いに愛し合いなさいと、愛の使徒となって行きました。

年をとるごとに、高慢さが砕かれ、謙遜になって行く姿は、自然にその存在に対して、頭が下がります。今日の御言葉の中には、驕りや高慢の愚かさと、謙遜の大切さに関して、いくつかの御言葉が記されています。

18 節「痛手に先立つのは驕り。つまずきに先立つのは高慢な霊。」高慢さによって、人は神様に逆らうようになります。また神様の戒めを捨てて、富に頼ります。そして神様ではなく、自分の力を信頼するようになります。人の高ぶりや高慢は、手にとるように分かっても、自分自身の高ぶりや高慢は、見えないものです。いや見ようとしないところから来るとも言えます。

自分の弱点や欠点を見ようとせず、強い点や、優れている点だけを見て、自分は優れていると思いやすいです。他の人の優れた点や、うるわしい点は見えない。いや見ようとしないのです。そして他人の弱点や欠点ばかりを見て、自分と比べるのです。それは心の弱さや狭さとも言えます。そして高慢は、神様を締め出します。行きつく先は、破滅となります。

1919節「貧しい人と共に心を低くしている方が、傲慢な者と分捕り物を分け合うよりよい。」高ぶった人は、心を開いて話せる人がなく、血の通った交わりがありません。イエス様は言われました。心が柔和で、へりくだった人は、地を相続すると。マタイによる福音書55章55節「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」

修養や我慢によっては、へりくだりは学べません。本物のへりくだりは、神でありながら人となり、罪人、酒飲み、遊女の友となってくださったイエス・キリストから最も学べます。本当のへりくだりを真実に教えてくだるのは、神でありながら、人となられ、人の為に砕かれた魂となられた、イエス・キリストに学び、ご聖霊様から、謙遜の賜物を頂くことによってのみです。

高慢な人は、自分の前途はまっすぐだと思い込んでいますが、死への道であることに気が付いていません。2525節「人間の前途がまっすぐなようでも、果ては死への道となることがある。」人間の心の目は、罪で雲っていて、未来が見ません、また分かりません。神様を無視する自分勝手が、根本的な罪です。イエス様の十字架の血潮こそ、罪の曇りをぬぐい去ってくださいます。

33節「くじは膝の上に投げるが、ふさわしい定めはすべて主から与えられる。」物事をくじで決めることがありました。長さの違う棒や、様々な形の石が、くじに使われました。くじの選択の背後にも、神様からおられ、神様が全ての出来事を支配されているということが、この聖句で強調されています。

ですから、主の御言葉と知恵と道を受けて、歩むことが、神様の御前に、まっすぐに進むことに繋がってゆきます。2020節「何事にも目覚めている人は恵みを得る。主に依り頼むことが彼の幸い。」ヘブライ語では、「何事」とは、「言葉」とも訳せます。真の「言葉」は、神様によって与えられると考えるならば、何事においても、神様の言葉に注意を払う人は、恵みを受けます。

22節「見識ある人にはその見識が命の泉となる。無知な者には無知が諭しとなる。」乾燥した中近東では、生き物に不可欠な水が湧き出る泉は、貴重でした。見識や知恵は、そのような貴重な泉にたとえられています。

しかし、いかに知恵の泉に預かっても、私たちの心が汚れているなら、その教えが良き実を結ぶことは出来ません。2626節「労苦する者を労苦させるのは欲望だ。口が彼を駆り立てる。」穀物を育てて刈り入れることであれ、それを買うために別の仕事をすることであれ、人が懸命に働く動機は、肉体的な飢えや、欲望と言われています。

30節「人は目を閉じて暴言を考え出し、悪を果たして口をすぼめる。」目を閉じるとか、口をすぼめるとは、嘘つきが、人を騙す時の態度や、客を騙すための動作を指しています。知恵を頂いても、心が、罪から解放され、清められなければ、その知恵の言葉を実行できません。謙遜も、神様からの賜物です。

謙遜は、自分を主に従わせることです。高慢は、主を抑えて、自分を主張することです。そして成就するのは、自分の計画ではなく、主の御旨です。へりくだって、自分の心にある罪を認めて、悔い改めて、主イエス様の十字架の贖いによる救いを求めて、心を清めて頂けますように。

そして主に従った者は栄誉を受けます。しかし自分の計画に固執した者は倒されます。自分の心を、主にあって治め、主の御言葉と知恵に心を留め、へりくだって、自分を主に委ねましょう。

正しい歩みを長年、続けてきた長寿者は、美しいです。冠とは、正しい歩みをし続けた人への報いを意味しています。逆に傲慢は、滅亡に先立ち、晩年は悲惨です。神様を無視して、自分に栄光を帰し続けたヘロデ王は、人々からの絶賛の中、虫にかまれて息絶えました。また富も驕りを生み出すものとなるので、常に注意が必要です。

常に、自分の思いではなく、御言葉に心を留め、主に拠り頼む者は幸いです。そして常に、神の国と神の義、神様の栄光を、ご聖霊によって求めて行きませんか。

コリントの信徒への手紙一1010章3131節「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」

マタイによる福音書66章3131~3333節「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」

最後に、チェ・ビョンラクという方の「決定的な『一つ』の知識」という内容を受け留めます。「夫たちの中には、政治、経済、社会など、この世の原理を、あれこれ探求していても、一緒に暮らしている家族の思いを知らない人が、たくさんいるようです。

多くの知識も必要ですが、本当に私たちに必要なのは、神様を知るという一つの知識だけです。ハン・ジェウク牧師は、著書『人文学を神へ』の中で、このように書いています。「『朗読の発見』というテレビ番組の中で、詩人のウォン・ジェフン氏が、このような話をしました。昨年の秋、一匹のトンボが事務所に入って来ました。

そこには、窓が99つありましたが、トンボは、外に出て行けませんでした。トンボの目は、複眼といって、個眼と呼ばれるレンズが、11万個以上集まって出来ています。しかし、その一万個の個眼が、すべて必要なわけではありません。外に出られる道を見つけられる1つの目さえあれば、いいのですが、その11つの目がなかったのです。」

それを見ながら、『私は一万個の目を持っているのではないだろうか。一つの目が必要なのに』と考えました。人間の知識や技術は、一千通り、一万通りと、驚くほどに発展してきました。しかし、人間は、一万通りの知識があっても、決定的な一つの知識がないために、倒れるのです。フランツ・カフカは、『私たちには道がありません。私たちが道だと呼ぶものは、ただの方向に過ぎません』と言っています。

一千個の問題に対する一つの答えがあります。外に出て行ける道を見つけ出す決定的な一つの目があります。それは神様を知る知識です。」

神様に愛されている皆さん、自分の道は正しいと言いながら、死へと至る道を、私たちは歩んでいないでしょうか。砕かれて、謙遜になって、主の十字架の血潮によって、きよめられ、主の道を御言葉と主の知恵によって見出して行きませんか。そして主に従う歩みを続けて、白髪の冠を頂ける晩年へと向かいませんか。お祈り致します。

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