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2023.9.3サムエル記上6 章11~21 節「誰が聖なる神、主の御前に立ちえよう」

牧師 松矢龍造

本当の苦しみとは、原因が分からない苦しみと言われています。その言われない苦しみの中で、主なる神様を認めること。そこに解決があります。旧約聖書詩編119 編71 節、協会訳聖書では「苦しみに遭ったのは私には良いことでした。あなたの掟を学ぶためでした」とあります。

北朝鮮に娘さんが拉致された横田早紀江さんは、苦しみの中で、主イエス様に出会い、特に旧約聖書の知恵の書の一つであるヨブ記から、慰めを見出したと言われています。ヨブも、言われのない苦しみの中で、最終的には、自分の高慢の罪に気づかされ、回復と祝福を得ました。

今日の御言葉では、ペリシテ人が、苦しみの原因が分からない中で、戸惑うことが記されています。彼らは、唯一真の神様の言葉を宣べ伝えている、主の預言者サムエルのもとには行きませんでした。自らの国の、偶像の祭司と占い師たちを呼んで尋ねました。

ペリシテ人は、主の箱を奪いますと、その主の箱が置いてある場所の人々に、はれ物が広がり、多量のネズミによって、恐慌が引き起こされました。「はれ物」と訳された言葉は、原文では「痔」を意味しました。はれ物を痔に置き換えて、ペリシテ人への嘲笑を強めたと考えられます。

またネズミによる恐慌は、ネズミの異常な繁殖によって、農作物が食い荒らされたのでしょう。ペリシテ人は、これらの苦しみの原因が分からず、自国の偶像の祭司と占い師たちを呼んで尋ねると、必ず賠償の献げ物と共に、主の箱を、イスラエルに返すように進言しました。

それは、主の箱と共に、はれ物の模型と、大地を荒らすネズミの模型を、それぞれ5 つずつ作って返すというものでした。金で模型を覆ったのは、イスラエルの神を感心させ、災いを除いて頂こうと考えたのでしょう。5つの腫物の模型は、ペリシテ人の地の五大都市の数に合わせたものです。すなわち、アシュドデ、ガザ、アシュケロン、ガテ、エクロンの五大都市が、災いに遭わない為でした。さらに5つの金のネズミは、五大都市の5 人の領主が、それぞれ治める、その周辺の町々の為でした。

しかし、それは主の律法に基づく、罪の捧げ物ではありませんでした。本来の罪過の捧げ物の規定は、レビ記5 章1 5 節にあります。「主にささげるべき奉納物のどれかを過ってささげず、主を欺いて罪を犯した場合、その償いとして、聖所で定められた支払額に相当する、無傷の雄羊を群れから取って、主にささげ、賠償の献げ物とする。」

ペリシテ人の罪の償いは、自分勝手な方法でした。加えて、彼らは、主の御前に悔い改めて、主に立ち帰るというものではありませんでした。また罪を捨てず、真の神を捨てるという愚かさでした。それは、ペリシテ人も、当時のイスラエル人も、両者が似たり寄ったりの、信仰の姿であったことを示しています。それはまた当時の宗教的状況の低さと、曖昧さの表れでもありました。

ペリシテ人は、かつてエジプト人に下された、イスラエルの神による災いのことを、多少知っていました。それでも本当に、イスラエルの神による災いであるのかを試そうとしました。6 章77~9 節「今、新しい車一両と、まだ軛をつけたことのない、乳を飲ませている雌牛二頭を用意しなさい。雌牛を車につなぎ、子牛は引き離して小屋に戻しなさい。

主の箱を車に載せ、賠償の献げ物として主に返す金の品物を箱に入れ、傍らに置きなさい。それを送り出し、行くがままにしなさい。そして見ていて、それが自分の国に向かう道を、ベト・シェメシュへ上って行くならば、我々に対してこの大きな災難を起こしたのは彼らの神だ。もし、その方向に上って行かなければ、彼らの神の手が我々を打ったのではなく、偶然の災難だったのだということが分かる。」

軛をつけて車を引くように訓練されている雌牛でも、自らの子牛に、乳を飲ませている雌牛ならば、自らの子牛の方に向かうことでしょう。しかしその本能から外れて、子牛のいる方に向かわなければ、それはイスラエルの神の仕業であるということになるとしたのです。すなわち、災いは偶然ではなく、主の箱を勝手に持ち込んだことによって、イスラエルの神が災いを自分たちに下したと判断するというものでした。

ペリシテ人は、自国の祭司と占い師たちによって、示された通りに行いました。乳を飲ませている二頭の雌牛を連れて来て、車につなぎ、子牛を小屋に閉じ込めました。すると車に繋がれた雌牛は、子牛たちのいる小屋の方には行かず、ペト・シュメシュに通じる一筋の広い道を、まっすぐに進んで行きました。途中、歩きながら鳴いて、子牛の方に行きたい本能を表しましたが、右にも左にもそれず、ベト・シュメシュの国境まで進みました。

それは主なる神様が、雌牛に働きかけ、契約の箱を、イスラエルに戻そうとすることの表われでした。そのようにペリシテ人も考えたことでしょう。そしてまた腫物とネズミによる災いも、主なる神様の御業であり、明確な印だと受け取りました。まさにエジプト人に災いの下した神様は、ペリシテ人にも、臨まれたのです。すなわち、主御自身が、契約の箱を通して、ご自身のみが、唯一真の神であることを現わされたのです。

1313~1616節「ベト・シェメシュの人々は谷あいの平野で小麦を刈り入れていたが、目を上げると主の箱が見えた。彼らはそれを見て喜んだ。車はベト・シェメシュの人ヨシュアの畑に着くと、そこに止まった。そこには大きな石があったので、人々は車に使われた木材を割り、雌牛を焼き尽くす献げ物として主にささげた。

レビ人たちは主の箱と、その脇に置いてあった金の品物の入った箱とを下ろし、大きな石の上に置いた。その日ベト・シェメシュの人々は、焼き尽くす献げ物や、他のいけにえを主にささげた。ペリシテの五人の領主はこれを見届けると、その日のうちにエクロンへ戻った。」

契約の箱が、元あったシロに戻らなかったのは、ペリシテ人によって、シロにある幕屋が破壊されてしまっていたのではないでしょうか。契約の箱は、レビ人だけしか、運ぶことが許されていませんでした。けれど、ベト・シュメシュの人々も打たれてしまいます。それは、主の箱の中を、勝手にのぞいたからです。「のぞいた」と訳された原文の言葉は、「分かる」とか「理解する」という意味の言葉です。ですから、ちらっと見たのではありません。意図があって、不敬虔な思いで、見たということです。

創造主なる神様は、至聖所にある聖なる契約の箱を、見る事すら禁じておられます。そして見るならば、死ぬと言われていました。民数記44章2020節「そうすれば、彼らが中に入っても、聖なるものを、かいま見ることはなく、死を招くことはない。」

ここから受ける信仰的な教訓のいくつかを受け留めましょう。第一に、全世界の主は、人間に制御されるお方ではないということです。

第二に、主なる神様は、その御力を、人間が自分の目的で利用できるという思いを許されませんでした。

第三に、神の箱をないがしろにしたイスラエルにもかかわらず、なお主はイスラエルに、神の箱が戻されることをなさった、恵みと恩寵の神様であるということです。不信仰であるイスラエルに対して、なお帰ろうとされる神様は、私たちをも、恵みによって、救い出される神様ではありませんか。

第四に、神様は、人生の一要素ではなく、また神様の御恵みも、良い人生の一要素でもありません。それでは、ペリシテ人と同じとなってしまいます。神様は、本来、人生の全要素に関わるお方です。

第五に、誰が、この聖なる神、主の御前に立ち得るのでしょうか。ベテ・シュメシュの人々は、今更ながら、聖なる神様の御前におののき、自分たちでは、主の箱を、担い切れないと考えました。そして北東数十キロに住む、キルヤト・エアリムの住民に、主の箱を委ねることを決意し、使者を送りました。

問題は、神の箱があるか、ないかではなく、この主なる神様に、真の礼拝を捧げるか否かなのです。誰が、この聖なる神様の御前に立ちえるのでしょうか。そのままでは、罪ある誰もが、聖なる主の御前に立つことは、誰も出来ません。ただ、主イエス様の十字架の血潮に依り頼む者しか、立ち得ることは出来ません。

主の契約の箱は、アシュドデ、ガデ、エクロンと、たらいまわしされ、最後は野に置かれ、遠くから眺めているだけとなってしまいました。それは、罪を捨てず、神様を捨てるあり方であったからです。それは昔も今も、同様な信仰的な姿ではないでしょうか。

最後に、ジョン・オートバーグという方の「神様が開いてくださる小さな門」という内容を受け留めます。「残酷な人間が行う悪のただ中でも、神様は善を行われます。ディートリッヒ・ボンヘッファーは、静かに学問を研究し、後学を育てながら生きたいと考えていましたが、その門は閉ざされました。ボンヘッファーは、地下神学校と強制収容所で、苦難の日々を送り、結局いのちを失いました。しかし、彼が遺した信仰の遺産は、今も全世界の多くの人々の心を動かしています。

ある一人の孤独な少女が、1313歳の誕生日に、赤と白のチェック模様の日記帳をプレゼントにもらいました。友だちが、あまりいなかった少女は、日記帳を親友にし、だれにも話せなかった心の思いを、すべてそこにつづりました。少女は、閉ざされた門の奥で生き、22年後に、短い人生の幕を閉じました。この少女がアンネ・フランクで、彼女の書いた『アンネの日記』は、2020世紀の文学の花の一つとなりました。

私たちには、大きく見える多くの門が、実は神様にとっては、非常に小さな門であり、私たちに小さく見える多くの門が、神様にとっては、非常に大きな門なのです。偉大で立派に見える門が閉ざされると、目に見えない小さな門、新しい使命に行く門が開かれます。神様が、その門を開かれるのです。

神様が行われることを、すべて理解することはできません。私たちの人生が、失敗と落胆に染まっていたとしても、切に望んでいた門が、閉ざされ続けているように見えたとしても、失望してはいけません。神様の恵みは、そのような中でも、チャンスの火花を起こし、大きな変化を導き出すからです。」

神様に愛されている皆さん、原因の分からない苦しみの中でも、主を認めるなら、そこに恵みの門が開かれて行きます。苦しみや悲しみの中で、主イエス様の十字架と復活、御言葉と祈りを通して、ご聖霊の導きを受け、恵みの門や解決の道を見出して行きませんか。お祈り致します。

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