2024.11.6箴言31章10~19 節「主を恐れ敬う 貴い妻その一」
- CPC K
- 1月2日
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牧師 松矢龍造
起
箴言の最後は、有能な妻について語られています。どうして、有能で貴い妻のことが、箴言の最後を飾るのでしょうか。それは、この妻の資質は、人間の女性に見たてて描かれる、知恵の性質に通じるからではないでしょうか。箴言は、旧約聖書の中で、知恵文学に属する書簡です。それゆえに、女性に見立てて描かれる知恵で終えることは、箴言にふさわしいのではないでしょうか。 加えて、箴言は生活における教訓に満ちていますから、有能で貴い妻の資質を通して、具体的な生活ヘの知識の適応である知恵を記すことも、箴言の終わりに、ふさわしいのではないでしょうか。
承
この最後の箴言は、 22 節からなります。しかも各節の冒頭の文字に、ヘブライ語のアルファベットが順に用いられています。 日本的に言えば、いろは歌と呼ばれるでしょうか。ユダヤ文学では、 アロステイ ック ・折句と呼ばれる表現方法です。この文学形式に沿って、有能な妻の資質が、詩的に美しく表現されています。
一説によりますと、神様の御言葉を扱う基底に、遊びの精神があり、喜びとユーモア的な自由がなければならないとあります。この最後のところは、家庭における女性の役割が、いかに重要であるかが、よく示されていることから、人生経験豊かな女性に基づいて記されているとも考えられています。
良き妻の資質について、アルファベット歌にして、詩的に表現して、台所や居間に貼られていたかもしれません。そうして、目指すべき、知恵ある生活を目指したとも考えられます。
転
それでは、 10 節から「有能な妻を見いだすのは誰か。真珠よりはるかに貴い妻を。 」ここで「有能な」と訳された原文の言葉は、「しっかりした」あるいは「賢い」「効果的な働きをなす」「すばらしい」「ほんとうに良い」という意味でもあります。いわば有能で貴き妻は、真珠よりも、 はるかに素晴らしい存在であり、徳と信仰と働きにおいて、全人格的に、有能な働き手だということです。
60 年間、信仰と愛によって、共に過ごしてきた夫婦があり、その夫が妻に死なれて、彼女の為に記念碑を建てました。それに刻んだ言葉は、「彼女は常に家庭を幸福にした」とあったそうです。実に理想的な妻であり、母でした。ところが、箴言の中には、逆な妻の姿も記されてきました。 箴言 12 章 4 節「有能な妻は夫の冠。恥をもたらす妻は夫の骨の腐れ。 」そして箴言 14 章 1節「知恵ある女は家庭を築く。無知な女は自分の手でそれをこわす。 」加えて箴言 21 章 9 節と 25章 24 節に二度出てきます聖句です。「いさかい好きな妻と一緒に家にいるよりは、 屋根の片隅に座っている方がよい。 」
悪妻を持つと、 60 年の不作、いや 70 年の不作とも言われます。さらに「20 代は、あつあつ。30 代は、いやいや。 40 代は、我慢。 50 代は、あきらめ。 60 代は、相手が互いに必要だから、くっついている」と結婚を皮肉って表現しているものもあります。
良い妻は、主から与えられるものであると箴言の御言葉にあります。 19 章 14 節「家と財産は先祖からの嗣業。賢い妻は主からいただくもの。 」またある方は、 良い妻となってゆくと言っています。その要素の一つ目は、生まれつき、神様からの賜物である。二つ目に、夫がつくるものであり、妻を大切にすると、大切で尊いものになってゆく。三つ目に、神様を恐れ敬い、神様を愛し、神様からの愛を頂いた女性は、誰でも素晴らしい奥様になれる。
今日の箴言の御言葉にあります有能で、真珠より貴い妻とは、内気で、自主性がなく、全く家庭的という資質ではないことが分かります。むしろ、良き妻をそのように思うなら勘違いです。
さらに言えば、容貌については何も言われていません。むしろ彼女の魅力は、彼女の性格と 信仰に、全く由来しています。
新約聖書でも同じように言われています。テモテへの手紙一 2 章 9 節 10 節「同じように、婦人は、 つつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。むしろ、善い業で身を飾るのが、神を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。 」
またペトロの手紙一 3 章 1~6 節にもこうあります。「同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました。あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となるのです。 」
かつてアブラハムの僕が、主人アブラハムの嫁選びに行った時がありました。老齢で主を恐れる僕は、主に祈り、しるしとした内容は、旅人が井戸に座っていると、水を汲んで、水を飲ませてくれ、しかも一緒にいたラクダにも水を分けてくれる女性としました。
これは、健康で親切、旅人を主にあって持て成す女性であることが、一目で分かる内容でし
た。まさに今日の箴言の有能で貴い妻に言及される内容に通じます。 11~19 節の良き妻は、ある面では、製造業者のようであり、また輸入業者のようです。さらに管理者のようであり、不動産業者のようであり、農業従事者のようであり、裁縫師のようであり、室内装飾業者のようであり、商人のようでもあります。
それでは、 11~19 節をもう一度。「夫は心から彼女を信頼している。儲けに不足することはない。彼女は生涯の日々 、 夫に幸いはもたらすが、災いはもたらさない。羊毛と亜麻を求め、 手ずから望みどおりのものに仕立てる。商人の船のように、 遠くからパンを運んで来る。
夜の明ける前に起き出して、 一族には食べ物を供し、 召し使いの女たちには指図を与える。熟慮して畑を買い、 手ずから実らせた儲けでぶどう畑をひらく。力強く腰に帯し、腕を強くする。商売が好調かどうか味わい、 灯は夜も消えることがない。手を糸車に伸べ、手のひらに錘(つむ)をあやつる。 」
ここで、有能で貴い妻の特徴をいつくか見ることが出来ます。第一に、信頼される妻であるということです。その信頼とは、主を恐れ敬い、主の知恵を頼りにして歩むので、信頼されます。箴言 9 章 10 節「主を畏れることは知恵の初め、 聖なる方を知ることは分別の初め。 」
第二は、衣食住に関して、勤勉に勤め、夫に益する 存在です。ほとんどのユダヤの家庭では、母親と年長の娘が、服を作り、料理をしました。その家事は、早朝にはじまり、一日続きました。勤勉なマネージャーあるいは、忠実に勤勉に家庭を管理する者です。ローマの信徒への手紙12 章 11 節は、キリスト教家庭の標語とも言えます。「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。 」
第三に、有能な妻や母の人生は、知恵がもたらす様々な資質を体現します。これが教会という神の家族なら、ペトロの手紙一 4 章 10 節となります。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。 」
第四に、忠実に人に仕える人です。コリントの信徒への手紙一 4 章 1 節 2 節「こういうわけで
すから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。 」
けれど、ここであげられている良き妻の資質は、目指しますが、誰が完全な者となれるでしょうか。皆不完全です。それ故に、誰でも、主の赦しと励まし、導きと助けが必要です。ご聖霊の助けがあって、はじめて、愛の実行者と なり、貴婦人としての歩みとなれます。
結
最後に、有能で宝石よりも貴い妻は、一人の夫のみを愛し仕えます。それは、夫にも言えることです。一人の妻のみを愛し、自分を捧げます。最後に、チョ・ミョンシンという方の「ただ神様だけに仕えなさい」という内容を受け留めます。「私たち牧会者は、結婚式の司式をすることがよくあります。最近は、結婚式を簡素化することが流行のようになっていますが、それでも結婚式で、決して外せないものがあります。
それは『結婚の誓い』です。大抵の場合、新郎新婦には、『新郎は、生涯、新婦だけを愛する ことを誓いますか。 新婦は、生涯、新郎だけを愛することを誓いますか』と問いかけられます。しかし『だけを』を『も』に変えると、どうなるでしょうか。『新郎は、生涯、新婦も愛することを誓いますか。新婦は、生涯、新郎も愛することを誓いますか』というふうにです。すると、意味は全く違うものになります。
あなたは、神様『だけ』に仕えていますか。それとも神様『にも』仕えています。驚くべきことに、イスラエルの民は、神様から離れたことは、一度もありませんでした。ただ、神様『にも』仕え、他の神々『にも』仕えていたのです。神様は、 このようなイスラエルの姿に対して、『彼らは、わたしを捨てて離れて行った』と表現されました。
信仰生活は、霊的な戦いです。イエス様『だけに』仕えるか、イエス様『にも』仕えるか、この二つの覇権争いなのです。私たちへのイエス様の愛には、変わりがありません。問題は、イエス様への私たちの愛が、しょっちゅう変わってしまうということです。イエス様を信じるということは、この方を、自分の人生の主と告白し、認め、迎え入れることです。これからは、完全で真実な姿勢で、主だけに仕えることを決意しましょう。 」
神様に愛されている皆さん、私たちもキリストの花嫁として、キリストのみを愛し、信頼さ
れ、勤勉で、神様の知恵を頂いて、賜物を生かす歩みと、ご聖霊によって、なってゆきませんか。お祈り致します。
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