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20250209コリントの信徒への手紙一4 章 6-13 節 「神の言葉に書かれていることを越えない 」

  • 執筆者の写真: CPC K
    CPC K
  • 3月22日
  • 読了時間: 9分

牧師 松矢 龍造

神の言葉である聖書は、人類の原則を何千年も示し続けています。この神様の言葉に書かれていることを越えるなら、それが堕落となります。越えるなら争いや戦争となり、人類の歴史を蝕んできました。現在も、書かれていることを越えて、分断や戦争が続いています。また環境汚染がなされています。そして個人の尊厳が無視され、闇バイトや殺傷事件が起きています。

それは時に、この世の社会だけでなく、教会の中にも、神の言葉なる聖書 に書かれていることを越えてしまうこともあり得ます。列車はレールの上にあるなら、安全に運行出来ますが、脱線すれば大惨事になります。私たち個人も共同体も、常にこの人類に与えられ て いる大原則に照らして、越えた歩みをしていないか、自己吟味が必要です。

使徒パウロは、コリント教会の霊的な生みの親として、断固として、愛をもって書かれたことを越えないように、霊的な子どもであるコリント教会に指摘しています。テサロニケの信徒への手紙一 2 章 11 節 12 節「 あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子 ども に対するように、あなたがた一人一人に 呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。 」

今日の御言葉では、コリントの人々に対して、神様の御前に高ぶることなく、謙遜に生きるように勧めています。 4 章 6 節「 兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。それは、あなたがたがわたしたちの例から、 『 書かれているもの以上に出ない 』 ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ち上げてほかの一人を ないがしろにし、高ぶることがないようにするためです。 」

コリント教会を開拓したのは、使徒パウロであり、その後を継いでアポロが育てました。そしてこのパウロとアポロは、このコリント書が書かれた時には、共にコリント には滞在しておらず、エーゲ海の対岸にありますエフェソにいました。そして 開拓して育てた霊的な親として、 共に コリント教会のことを深い関心と 、 祈りをもってい た ことでしょう。私もやがて希望が丘教会を離れる時が来るでしょう。そした ら、その後も、希望が丘教会に対して 、 深い関心を持ち、主にあって祈り続けるでしょう。

6 節において「高ぶる」と訳された言葉は、原文では吹いて膨らますフイゴが語源となった言葉が使われています。そこから「慢心する」あるいは「のぼせ上がる」という意味でもあります。この高ぶり、高慢というのは、コリントの教会においては、ある人をあがめ、他の人を見下すということでした。他の人を担ぎ上げ、引き合いに出して、相手を下げすみ、 ののしる ことは、人をさばくことであり、それは高慢から来ることです。

そもそも神様でなく、 「 パウロだ 、 アポロだ 」 と、人間を担ぎ上げることこそ、神の言葉である聖書に記されていることを越え ることです。詩編 115 編 1 節にはこうあります。「 わたしたちではなく、主よ 、 わたしたちではなく 、 あなたの御名こそ、栄え輝きますように 、 あなたの慈しみとまことによって。 」

使徒パウロは、教会の中に、一方に くみ して、他を 見下すことが見られるので、その高慢を正す目的で、今日の御言葉を記しています。このような高ぶりに陥ることがないようにするためには、どうすればよろしいでしょうか。私の 50 年の教会生活の中で、残念ながら、教会の中に、このような高ぶりが生じて来た場面があったことを振り返ります。ですから、 2 千年前のことで はなく、現在のことでもあります。

高ぶりに陥らない為には、第一に、働き人は、競争者ではなく、共に神様に召された協力者 と 弁え ます。 7 節「 あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。 」

真の指導者は、キリストの代理人に過ぎず、真の働き人は、絶えずキリスト のみ に栄光を帰し、神様 に 対して 責任を負っています。そして指導者には、神様から委ねられている賜物によって仕えますが 、全ての賜物を受けているわけではありません。 神様が与えておられないものは、供給することが出来ません。ですから、働き人は、競争者でなく、共に神様に召された協力者であり、互いに補い合うことが大切です。

第二に、ですから、最も深い忠義は、キリストのみに向けられるべきであり、代理人の誰かに向けられるべきではありません。

第三に、私たちは、自分を導いた霊的な指導者を慕ってしまう時があるでしょう。しかし教会に分裂を引き起こすほどに、人間の指導者を誇りにしてはならないということです。ま さ に先の、 3章 6 節です。「 わたし は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。 」

第四に、自己満足に陥ってはならないということです。 8 節「 あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから。 」

キリスト者は、世の終末の時に、キリストが再臨されて、救いの完成を頂いた時、キリストと共に治める王のようにされると預言されています。しかし、それまでは、キリストと 苦難を共にしつつ、自らの未完成の救いの中にいます。そして終末の栄光を 得る為に、今を主の恵みに生かされな

がら、世の迫害や、サタンの誘惑と攻撃に対して、戦い続けるものたちです。

コリントの教会は、このキリスト者の基本姿勢を忘れて、救いの完成をすでに得たかのように、有頂天になって高慢に走っている人たちがいました。神の国と教会には、「すでに」という面と、「いまだ」という両面があります。すでにキリストの十字架と復活によって、救いを頂いていますが、しかしその完成は、いまだ至っていません。なのに「すでに」だけを強調する なら、高慢に陥ってしまいます。

第五に、主は 、 あたえて地上において迫害を許されて、私たち信徒を、練りきよめてくださ ることを 覚えます 。 9 節「 考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。 」

当時、ローマ帝国によって迫害を受けていたキリスト者は、闘技場で「見せ物」となっていました。見せ物とは、闘技場で、猛獣の餌食になる死刑囚のことです。キリスト者 の中に は、獣の衣を身に着せられ、闘技場で猛獣の餌食になって殉教して行く人た ちがいました。使徒パウロは、その殉教者たちになぞらえて、自分のことを伝えています。最後まで、耐え忍ぶ者は幸いです。主はそれらの人々に、復活と永遠の命と御国を約束されています。

第六に、誰でも敬虔に、信心深く歩むなら、かならず神様に逆らう世から迫害に遭います。もし迫害がないなら、この世と同じ歩みをしているからではないでしょうか。 10 節~ 13 節「 わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが 、わたしたちは侮辱されています。

今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。 」第七に、キリストが示され、使徒たちもそれに従ったように、常に主の僕として生きることを無視する人々のように

、 ならない ことです。キリストも、父なる神様に聴き従うことの中で、主の僕

として 歩まれました 。 父なる 神様の 御前に謙遜を もって生涯をまっとうし、使徒たちも、この主イエス様に倣いました。それは、私たちキリストを信じる教会も同じです。

使徒パウロは、コリント教会の高ぶりと対照的に、自分たちの低さを述べています。それは 、 今は、救いの完成を 得て いるように 有頂天に なる 時では ない ことを はっきりさせています 。 そして すべての もの、 すべての 人を 、 神様の 御 言葉 に よ って 評価する ように 勧めて います。 私たちも 、 神の言葉なる 聖書に 書かれている ことを 越えない ように、 絶えず 静まり 、 御言葉に 基づいて 、 個 と 共同体を 、 御聖霊 よ って 吟味して行きませんか 。

最後に 、 チェ ・ ビョン ラク という 方の 「 最後 の 勝利 を 得るまで 」 という 内容を 受け留めます 。「 讃美 の 中で 、 『 最後の 成功を 得るまで 』 と いう 歌詞は 聞いた ことが ありません。 ある の は 『 最後の 勝利を 得るまで 』 とい う 歌詞 だけです。 イエス様も 、 この 世で 成功 した と 言わずに 、 『 世に 打ち勝った 』 と 言われました 。 イエス様は 、 世の 成功者 では なく 、 勝利者 です。

猛 スピード で 走り去る スー パーカー を 見る たびに、 あの 車の 目的地は 、どこなのだろうと 思わされます 。 華やかな スーパーカー は、 この 世の 成功者 の 証 し には なりますが、 勝利 の 象徴には なりません。 むしろ 夏の 間 、 汗水 流して 貯め た お金で 、 短期 宣教 旅行 の 費用を 、 何とか 工面して 、 福音を伝える ために、 見知らぬ 地へと 旅立つ 姿 こそ、 勝利の 人生と 言える でし ょう。

夏の 休暇を すべて 使って 、 慣れない 国で 腹痛 や 便秘 に 苦しみ ながら 、 涙や 鼻水 まじり の 子ども たちを 抱きしめ て、 神様の ことばを 伝える 人 こそ、 勝利の 終着駅 に 向かって 進んで いる 人なのです 。

イエス様は 、 『 あなたは 成功の 終着 駅 で 人生を 終えたいですか 。 それとも 勝利の 人生を 生きたいです か 』 と 尋ねられます 。 イエス様は 、 十字架の 上で 死なれましたが 、 死に 打ち勝ち、 よみがえり、完全な 勝利を 収められました 。 その 方を 、 心 に お招き すれば、 その 日から 、 その 方の 勝利が 、 自分の 勝利と なります。

いつ 成し遂げられるか 分からない 遠い 未来 の 成功 、 成し 遂げても 風 の ように 消え去る 成功の 為に生きる のではなく、 イエス様を 信じ る 勝利者として 生きましょう 。 自分の 時間を 隣人の ために 使い 、礼拝の 時間を 最も 大切に する 人 こそが、 す でに 勝利 した 人 なのです。」

神様に 愛されている 皆さん 、 勝利者 なる イエス様を 心に 迎え入れ 、 神 様の 御言葉である 聖書に 記されて いることを 越えない ように 、 ご 聖霊 の 導 きに 従って 、 この 世の 成功者 ではなく、 神 の 国の 勝利者 となって 行きませんか 。 お祈り 致しま す。


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