top of page
  • 執筆者の写真CPC K

2023.6.21恵みの祈祷会シリーズ・生活の中で神を知る(後半)

「創造主なる神様は良いお方」 ルカによる福音書13 章1~5 節 ヨハネによる福音書 9 章 1~3 節


牧師 松矢龍造 「生活の中で神を知る」というシリーズの2回目は、「創造主なる神様は良いお方」という題です。私たちは時々讃美において「主は良いお方」と讃美する時があります。その際に私たちは、どのような意味で「主は良いお方」と言っているのでしょうか。 前回、人は物語によって動かされている存在であるということをお伝え致しました。その物語が間違ったものであるなら「主は良いお方」という時の「良い」という意味が、人によって異なっているかもしれません。もし自分の中にある物語が、因果応報であれば、良いことをしたの で、神様は良い結果を与えて下さる。悪いことをしたら罰があたって、悪いことになる。そこには「懲罰を下す」という物語を聞きとることが出来ます。 この物語によるなら「主は良いお方」という時の神は、正しい者には、良きことなされ、悪いことをしたなら、罰せられる。それが良いお方である。けれど、それは創造主なる神様の全てのことなのでしょうか。あるいは人生は、それだけなのでしょうか。 先ほど最初に拝読して頂いた聖書は、ルカによる福音書13章でした。そこには「ガリラヤ人たちが、そのような災難を受けたからには、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだった」という人々の思いがあったことが前提となっています。けれどイエス様は「そうではない」と断言されています。 さらに二番目に読んで頂いたヨハネによる福音書では、生まれつき目が不自由な人が登場してきて、弟子たちはイエス様に尋ねます。「この人が、生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」ここには、お弟子さんたちの心に も、因果応報の物語が、根付いていたことが伺えます。「生まれつき目が不自由なのは、本人が罪を犯した結果か、それとも両親が罪を犯したからか。」これに対してもイエス様は「そうではない」と断言されています。 ですから、イエス様を通して表されている創造主なる神様は「懲罰を下す神」すなわち因果応報だけで表されている神様ではないということです。むしろイエス様はマタイによる福音書5章45 節でこのように言われています。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」悪人には太陽を昇らせず、雨も降らせない。また善人だけに太陽を昇らせ、雨を降らすとは言われていません。皆さんは、人生の中で、時に不条理を覚えたことも、おありだと思います。 もちろん罪を憎まれる創造主なる神様は、モーセの十戒において、行いに対する報いを述べられているところがあります。出エジプト記20章4~6節「あなたはいかなる像も造ってはならな い。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」 罪を罰せられる神の義が語られています。そして悪の感化は、子孫に悪しき影響を与え、善の感化は、子孫に良い感化を与えることも事実です。しかしこの神様の姿だけが、父なる神様ではありませんでした。この神様は、同時に神の独り子を、私たちに、お与えになるお方でもありました。 私たちの人生も、悪しきことをしたのに、安泰でいる人もいるし、良き事をしているのに、悪しきことが起こることもあります。あるいは悪しきをした結果、悪しきことが起きることもあ り、良きことをしたことによって良きことが起こることあります。 四世紀に活躍した神学者の一人にアウグスティヌスという人物がいました。彼は信仰深い、母モニカに育てられましたが、若い頃、放蕩三昧の生活をしていました。その間母モニカは、祈り続けました。そして回心して後に、古代の神学者の第一人者にまで変えられて行きました。悪しきことをしていたのに、後に悔い改めて回心し、良き人物に変えられました。この方が次のように言われます。

「神の判断によって、なぜ善人が貧しくされ、悪人が豊かにされるのか、私にはわかりません。またなぜ悪人が健康を享受し、信仰の人が、病の故に人生を無駄に過ごさざるをえないのか、理由がわからないのです。しかもそこには一貫性がありません。というのは、善人が幸福を享受 し、悪人が不幸に人生を送ることもあるからです。 神には、どのような判断があって、こうしたことがなされたり許されたりするのか、私たちにはわかりません。しかし神は、最も善であり、最も知恵に富み、最も正しいお方であり、そのお方のうちには、弱さもなく、思慮に欠けることもなく、不公平のかけらもないのです。ともあ れ、私たちにとって有益なのは、善人も悪人も同様に被る幸福や不運を、重要なこととは見なさいようにすることです。」まさに正直であり、またこの世の現実を物語っています。やがて私たちが天の御国に行けたなら、全てのことを教えて頂けることでしょう。 けれどもう一つ確かなことも受け留めなければなりません。悪を行う者が経験する心の葛藤 と、善を行う人のみが経験する、内面的な祝福があるということです。アウグスティヌスは、次のようにも言っています。「悪人に特有な邪悪なことから最大限の距離を置かなければならな い。」自己中心で意地悪く陰険な人は、心の奥深くで罪責感、孤独、悔恨、自己嫌悪を覚えるものです。逆に愛し、仕え、誠実で、忠実な人に対して、悪人が決して知りうることができないような、喜びと平安、内なる満足、他の人を助けることが出来たという感謝と信頼感が与えられるということです。 さらに加えるなら、艱難を通して、悔い改めや信仰が導かれたり、成長が与えられたりするという面もあるということです。ヤコブの手紙1章2~4節にこうあります。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」 悪人と言われる人であっても、善人と言われる人でもあっても、艱難や試練の中で、万事益とされる面があります。加えて言えば、それがその人個人だけでなく、隣人に対する益にもなることを使徒パウロはコリントの第二の手紙1章で展開しています。 4~6節「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれて、わたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。 わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。」 どうして使徒パウロは、苦難の中で、神様の慰めと支えを確信することが出来たのでしょう か。それは実際に、助けと慰めを受けた経験です。キリスト者と教会を迫害していた自分に対する、復活のイエス様の恵みによって、罪赦され、キリストの福音を逆に証する使徒に変えられた体験です。そして迫害の中でも、受けた主の支えと慰めと御業に預かったことです。 もともとイエス様は、苦しみについて説明なされるだけのお方ではなく、罪は犯されませんでしたが、自ら人となって私たちの苦しみを体験されました。ヘブライ人への手紙4章14~16節「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。

この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」

かつてイスラエル研修において、イエス様が血の汗流し祈られたゲッセマネの園を訪れまし た。主は私たちの為に苦しみについて教えられただけでなく、自らも苦しまれ、そして今も私たちの為に執り成しておられお方です。そのことを現地で深く覚える機会となりました。

さらに十字架で、罪が何一つないお方なのに、極悪な十字架刑となったことは、最大の不条理です。けれど私たちの罪の為に、身代わりとなって苦しまれたお方です。

このキリストの十字架故に、創造主なる神様は、いつも良いお方です。そしていつまでも良いお方なのです。この常に良いお方を、私たちが実感するために、必要なことは、静まってこの神様と造られた世界を意識する時間を毎日持つことです。

私たちの世界は、騒々しく、せわしなく、心を静めることが難しくなっています。常に良いお方は、私たちが静まって、御自身と造られた被造物について黙想することを願っておられます。私たちは毎日静まることが必要なのです。

その為にいくつかのヒントを学びました。一つは、生活の中で、少しの時間を見つけてください。例えば、活動と活動の合間の時間で構いません。一日の生活の中で、5分間の時間を、沈黙して座る時間として確保します。二つ目に、少し早めに起床します。あるいは待ち合わせの場所に少し早めに出かけ、その場所に着いたなら、時間の余裕が出来るので、静かな場所を見つけて、ただそこにいるのです。マザーテレサさんの言葉に「静けさは、物事に対する新しい見方を与えてくれます。」

三つ目に、静まる時、様々な考えがあちこちと頭の中を駆け巡ることは普通です。そこで、メモ帳や携帯やスマホのメモ帳を用意して、静まることを妨げている物が思い浮かんだら、書き留めます。心を静める助けとなります。さらに静まる時、5分のうち最初の一、二分は聖書を読むことから始めるのも良いかもしれません。

最初は静まることは骨のおれることからもしれません。しかし毎日続けるなら、良いお方に対する感謝や、良いお方が置かれた隣人への感謝が思い出されます。葛藤があれば、祈ります。心配があれば、祈りまた執成します。そして立ち止まって、創造主が創造された自然を深く見つめて感謝することも良いでしょう。鳥のさえずりや色、樹木や空の雲の形や色、風の音や虫の声、偉大な創造主を覚える時でもあります。そして静まった後、「主は常に良きお方」と、信じて確信し、感謝と共に、良きお方の御心である神様と人を愛する者として生かされ生きる歩みとなりますように。お祈り致します。

閲覧数:1回0件のコメント
bottom of page