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恵みの祈祷会2022.2.16コロサイの信徒への手紙3 章1~4 節(後半)

牧師 松矢龍造


後半・3 章3~4 節「キリストの死と復活に生かされた日々の生活」


キリスト者とは、霊的にキリストと共に十字架につけられて死んで、霊的にキリストと共に復活している存在です。このキリストにある死と生を意識して日々生活することが大切です。さらにもう一つ意識していることが必要なものがあります。それはキリストの再臨です。キリストが再び世の終末の時に、天から地上に来られます。一度目は、救いを地上にもたらす為でした。そして二度目は、その救いを完成する為に来られます。

いわばキリスト者は、過去においてキリストを信じて、キリストと共に霊的に死んだことを思います。また現在において、キリストにおいて霊的に復活してキリストの命に生かされていることを思います。そして未来において、キリストが再臨される時に、復活の力が世に完全に現わされることを思います。過去、現在、未来における、これらのことを意識しているか否かは、私たちの日々の生活に現れてきます。

今日の御言葉である3 節をもう一度拝読致します。「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」この3 節をライト・フットという方の意訳は、とても分かりやすいです。「あなたがバプテスマの水に沈んだ時、あなたが永遠に、この世から消え失せた。あなたがたがよみがえったことは事実であるが、あなたがたは、ただ神に対してのみよみがえったのである。それ以来、この世は、あなたの新生命について何も知らないのである。」

私たちキリスト者は、世に対して死んだ、消え失せたと言っています。ですから世の目的の為に生きていないのです。

すなわち人間の罪と堕落と、その本性から生じる悪徳に対して死んでいる、消え失せています。けれどある人は、それでも罪と誘惑に対して死んでいないと感じていると言います。皆さんはどう感じておられますか。

この死んだと言っているのは霊的に死んだことで、肉体においては罪や誘惑を感じています。けれど、霊的に死んで、キリストにおいて復活していると認めるなら、私たちの生活において、世の罪に対して死んでいることが現実的なものとなってゆきます。

私たちの内に、キリストの復活の力が働き、私たちの真の命が、キリストと共に神様の内に隠されていると続きます。世の人たちは、私たちの内側にキリストの復活の命があることを知らないでしょう。あるいは無理解であったり、誤解したりしています。それが世に対して、あきらにされるのは、キリストの再臨の時です。

4 節の「現れる」と訳された原文のギリシア語は、公衆の目に知られるようにするという意味でもあります。今は世には隠されています。隠されていることは、秘密にされていますが、完全であるということでもあります。

けれど、復活の力に生かされた生活を通して、世に示すことが大切です。キリスト者は、生活において復活の主に生かされていることを示さなければなりません。それは他の人々にもキリストにある死と復活という恵みに預かる人々が更に起こされるためです。そして神様の栄光が表される為です。加えてキリスト者は、再臨のキリストが地上に戻って来られることに備えて、今どのように行動すべきでしょうか。消極的には、生まれながらの利己的な性質に対して死んだ生き方をします。そして積極的には、復活の主の力が、キリスト者の中に生き生きと働いているので、希望と自由と喜びと愛に生かされている生活が表されます。

そのためには、日々神の御言葉によって確認しつつ、世に死んでキリストにありて生きている現実を認め続けます。二つ目にご聖霊の命と助けと導きに預かります。そして三つ目に、キリストの十字架と復活と再臨に基づく希望に生かされることです。

その為に必要なことがあります。キリストの死と復活に生かされることです。私たちがある人と死と生を共にしましたというなら、それは最も深い結びつきをしています。同じように、いやそれ以上にキリストと共に死に生きているのですから、その結びつきは深いです。ならばこの深い結びつきであるキリストと日々どのように人格的に交わっているでしょうか。亡きオンヌリ教会のハ・ヨンジヨ牧師は、「主とふたりきりで過ごす幸せな時間」を次のように表現していました。「主と共に過ごす静思の時は、主との交わりです。主は私たちと深く交わることを願っておられます。毎日私たちが、ご自分のことばに耳を傾けるのを待っておられます。愛し合う者どうしが、どれだけ一緒にいたいと思うか考えてみてください。私たちを愛してくださる主は、そのように私たちとともにいることを心から願っておられます。私たちが主とともに歩むことほど、主が喜ばれることはありません。ですから静思の時はプログラムではありません。主との生き生きとした関係そのものです。静思の時は、主に会ってその方と交わる、主と私だけの最も幸せな時間なのです。」

日々私の為に十字架にかかって死なれ、わたしの為に復活してくださったイエス様と、出会い交わり愛を確かめ合う。それが世に対して、復活のキリストが生き生きと私たちを通して現わされます。私たちの命であるキリストに生かされ生きる日々の生活となりますように。

最後にペトロの手紙一1 章3~5 節と8 節「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。」「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」お祈り致します。

(二人ずつ間隔をとって互いに前を向いて分かち合いと執り成しの祈りをしましょう。)

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