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2021.5.12 希望の祈祷会 民数記4 章1~49 節

  • 執筆者の写真: CPC K
    CPC K
  • 2021年5月20日
  • 読了時間: 8分

「聖なる神様への務め」2021.5.12 牧師 松矢龍造

人間が創造された目的は、創造主なる神様の栄光の為であり、また聖なる神様に対して、聖なる者となることです。イザヤ書43 章7節「彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者。」

そしてレビ記11 章44 節45 節「わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである。地上を這う爬虫類によって自分を汚してはならない。わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい。」

聖なる礼拝に関する務めを担ったのは、イスラエルの中ではレビ人でした。3章ではレビ人の務めと人口調査が記されていましたが、4章では、レビ人の各氏族の務めの詳細と、作業に従事出来る30 歳~50 歳までの壮年のレビ人の登録に関して記されています。

4章で何度も繰り返されている言葉があります。1節「主はモーセとアロンに仰せになった。」17 節にも「主はモーセとアロンに仰せになった。」21 節「主はモーセに仰せになった。」37 節「主の命令によって、モーセとアロンが行った。」41 節「この登録は、モーセとアロンが、主の命令によって行った。」45 節「この登録は、モーセとを通してなされた主の命令によって、モーセとアロンが行った。」48 節「彼らは、主がモーセに命じて登録された者たちである。」

七度も、主が命じたことを行ったと強調されています。聖なる神様が命じられたことを行うことが、聖なることに繋がります。そして詩編では、恐れ敬う心をもって主に仕えるように命じられています。詩編2 章11 節「畏れ敬って、主に仕え、おののきつつ、喜び躍れ。」

そしてイザヤ書では、主の務めを行う者は、己を清く保てと言われています。イザヤ書52 章11「立ち去れ、立ち去れ、そこを出よ。汚れたものに触れるな。その中から出て、身を清めよ、主の祭具を担う者よ。」レビ人の中でケハテの氏族が、一番重要な務めを担っています。それはモーセとアロンが、この氏族の出であることのためでしょう。ケハテの子らの仕事は、臨在の幕屋と神聖なものにかかわりました。

特にアロンとその子らは、宿営の移動にあたって、至聖所の垂れ幕をもって、掟の箱を覆いました。さらにジュゴンの川の覆いを掛け、そしてその上から青い一枚布を広げ、担ぎ棒を差し入れました。聖なる箱には、直接手に触れてはなりませんでした。

後に契約の箱を移動させる際、直接触って死を招いたウザという人物がいました。サムエル記下6 章6節7 節「一行がナコンの麦打ち場にさしかかったとき、牛がよろめいたので、ウザは神の箱の方に手を伸ばし、箱を押さえた。ウザに対して主は怒りを発し、この過失のゆえに神はその場で彼を打たれた。ウザは神の箱の傍らで死んだ。」

契約の箱だけではありません。聖なる他の祭具も、アロンとその子らが、覆った後、ケハトの子

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らが来て、運搬に取り掛かりました。またその際に、アロンとその子ら以外は、見てもいけませんでした。20 節に「聖なるものを、かいま見ることはなく、死を招くこともない」とあります。「かいま見る」を「一目でも見てはならない」と訳している他の聖書訳もあります。レビ人のうち、働きを担うことが出来る人々は、30 歳から50 歳と言われています。これは体力だけでなく、思慮分別が必要だということです。もっと詳細に言えば、健康と成熟と一定の能力が必要であったということです。後に25 歳以上、20 歳以上と変化して行きますが、それはそれぞれの書簡が書かれた時代の慣習化の違いであったり、実地訓練する人たちが育ったりしたことからでもあるかもしれません。登録するとは、公に認められるということであり、また公に期待されることであり、そして公に吟味されるということです。ですから気分にまかせて奉仕することはあり得ないです。また自分の都合でしたり、しなかったりということも許されません。それは公の仕事だからです。

さらにそれぞれの務めには、管理者や監督者が立てられました。祭司アロンの子エルアザルは、灯油、香草、日ごとの穀物の捧げもの、聖別の油について、すなわち幕屋全体と、その中のものすべて、聖所とその祭具を管理しました。

ゲルションの氏族は、幕屋の至聖所と聖所を隔てる垂れ幕以外の、幕屋の布を運搬したり作業をしたりします。その監督をするのが、祭司アロンの子イタマルでした。またメラリの氏族は、幕屋の壁板や横木などの運搬や作業を担いました。そしてその監督をするのが、祭司アロンの子イタマルでした。

主が立てられた指導者に従い、秩序正しくなされことが期待されます。そして指導者の側も、多く任されたら、多く要求されることを弁えていなければなりません。主と隣人を自分と同じように愛し、謙遜の霊を祈り求め、それぞれの務めが出来ますように。

次に祭具の中にあります聖別の油に関して、受け留めておきます。聖別は、神様をたたえ、神様に仕えるようにするために、物や人を区別する時に使われます。祭司、王、預言者が任職される時に、頭の上に、油が注がれました。出エジプト記29 章7 節8 節「次いで、聖別の油を取り、彼の頭に注ぎかけて、聖別する。次に、アロンの子らを前に進ませ、彼らに長い服を着せ、飾り帯を締め、ターバンを巻く。彼らの祭司職はこうして、不変の定めにより、彼らのものとなる。次に、アロンとその子らの任職式を行う。」

またレビ記8 章11 節12 節「その油の一部を祭壇に七度振りまき、祭壇とすべての祭具、洗盤およびその台に注ぎかけて聖別した。次に、聖別の油の一部をアロンの頭に注ぎ、彼を聖別し」とあります。

そしてサムエル記上16 章12 節13 節「エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。『立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。』サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。」

さらにもう一つ、メノラーと呼ばれる燭台についてです。燭台は、純金で土製の小さな灯皿を置く主柱と、支柱が七本あります。そして灯皿は、神様の栄光を表しました。出エジプト記29 章43節「わたしはその所でイスラエルの人々に会う。そこは、わたしの栄光によって聖別される。」さらに香は、特別な香料を規定に従って混ぜ合わせた薫香が用いられました。そして香の煙は、神様の御前に上る祈りの象徴でした。詩編141 編2節「わたしの祈りを御前に立ち昇る香りとし、高く上げた手を、夕べの供え物としてお受けください。」

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そしてもう一つ、日ごとのパンは、イスラエルの12 部族を表すもので、12 個が捧げられ、安日ごとに、新しいものに取り替えられました。そして幕屋の務めを終えた人と、代る人が、半分ずつ食べたと言われます。

私たちも、キリストの体として、一人一人は、各器官です。それぞれの働きをしっかり踏まえて、主に結びつけられて、主の御用が出来ますように。コリントの信徒への手紙一12 章12~30 節「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。

体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。

足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。

そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。」

これらの働きをする際に、必要なことは、神様の栄光の為であると共に、愛が必要です。そして祈りの奉仕は、何歳であっても、また誰でも出来る、尊い奉仕です。今日のレビ人の登録は、30 歳~50 歳とありました。もちろん現在は、寿命や活力年齢が異なりますが、後には50 歳という上限なくなってゆきました。

最後には祈りの奉仕は誰でも何歳でも出来て大切です。終わりに「最上の業」というポイムを受け留めて閉じます。「この世の最上のわざは何?楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう。

若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、人のために働くよりも、けんきょに人の世話になり、弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること。老いの重荷は神の賜物。古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために。

おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。こうして何もできなくなれば、それをけんそんに承諾するのだ。

神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ。手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。『来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ』と。」お祈り致します。

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