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  • 執筆者の写真CPC K

2022.11.16セル研修会ヒルソングに学ぶ「教会の確信」について

牧師 松矢龍造


序、

ヒルソング教会について


ヒルソング教会(Hillsong Church、旧称はHills Christian Life Centre)は、オーストラリアを拠点とした聖霊派の流れを汲む教会です。シドニーだけでも、ヒルズ、ウォータールー、メリーランズ、サウス・ウェスト、アレキサンドリアなどにキャンパスがあります。キャンパスと呼んで教会と呼ばないのは、家族として一つの教会であることを意識したものです。

2002年には、オーストラリア首相ジョン・ハワードの立ち合いのもとヒルズ・キャンパスに3500席の礼拝堂が開設されました。1990年代に45人から始まった教会が、オーストラリアのシドニーだけでも約2万人へと成長しています。

海外ではアメリカ(ニューヨークやロサンジェルス)、イギリス(ロンドン)、ウクライナ(キエフ)、フランス(パリ)、インドネシア(バリ)などに21ヶ国に国際支部を持ちます。日本では今年の8月にヒルソング・東京が開設されました。世界中のヒルソング教会は、現在毎週13万人が集まって礼拝をしています。

ヒルソングは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド運動の流れを汲んでおり、ブライアン・ヒューストン、ボビー・ヒューストン両牧師夫妻により1983年に設立されました。ヒルソングのワーシップ・チームは、世界のコンテポラリー・ワーシップ・ミュージックに大きな影響を与えています。北半球では、特に現代キリスト教讃美の作詞・作曲で世界的に知られていますが、その他の要素は、あまり伝えられていません。今回の研修は、ワーシップは氷山の一角に過ぎず、その土台となっているものを深く受け留めることが重要となっています。


三年前、コロナ禍前の研修について


三年前の10月に研修を行うことになったのは、次のような経緯からです。近年毎年の3~4万人規模で海外からのゲスト・スピーカーを招いてスタジアムに集まる7月のカンファレンスがあります。また、10月の3~4千人規模のヒルズ・キャンパスで行われるワーシップとクリエイティブ・カンファレンスがあります。そして何もカンファレンスが行われていない時期に研修に行くこともできます。今回10月の時期に研修を行ったのは、7月では日本だけの集会を持って頂く余裕がなく、またカンファレンスがない時期は、各キャンパスを巡り、日本人の研修ツアー向けの集会を開いて頂けますが、カンファレンスには出席できません。それで日本からの研修ツアーを歓迎できる余裕があり、カンファレンスにも参加出来るという両方から、10月の時期を選びました。



一、三年前の研修のオリエンテーションから

ヒルソング教会で多国籍言語の担当牧師のジョン先生ご夫妻のご自宅に招かれ、歓迎バーベキューの持て成しを受けました。そしてご夫妻から歓迎の御挨拶を受けました。

1. ワーシップ&クリエイティブ・カンファレンスにようこそおいでくださいました。

2. 神様は、このカンファレンスにおいて、リバイバルを与えてくださることを信じています。そこに神様が皆さんを招いてくださったのは、必ず皆さん一人一人に確かに、今まで見てなかったことを、与えてくださると信じています。

3. 日本は実り多い国となることを信じています。

4. 皆さんが様々な犠牲を払って来られたので、神様から御言葉が与えられように祈ります。

5. 皆さんが求めていることに、神様が答えを与えてくださることを信じています。

6. 讃美の中で、主がご臨在を表され、何かが開かれることを信じています。

7. ワーシップは、氷山の一角なので、その下にあるものを見て欲しいと思います。


 次に、今回の研修ツアーのコーディネーター・チームから、今回受け留めて欲しいことを語って頂きました。

 事務局長の榊山使音先生より

1.  私は宣教学を専攻して、国ごとの宣教の文化脈化を学びました。しかしインドネシアのヒルソング・バリでは、文化が違っても、オーストラリアのヒルソングと同じ方法で宣教しています。それでも3年で1万人に成長しています。ヒンズー教やイスラム教がさかんでもある中でも、文化を越え、愛だけは共通です。その文化や宗教を超える愛を今回の研修で受け留めて欲しいです。

オーストラリアのパースでは、3年間で1000名のキャンパスに成長しています。それはキリストの愛が広がっている姿です。

ボランティアは、愛で動かされて奉仕しています。ぜひ奉仕したいという心があります。今回のカンファレンスも3000人のボランティアがいますが、キリストの愛に押し出されている姿を見て欲しいです。駐車場に入った時から感じる愛を体験してください。

2. 子どもたちから成人になるにつれて自然的な弟子養成がなされ、世代交代において悩みがないこと。

3. 説教のアプローチが違うことを見て欲しいです。説教を聞くと、私もそのようにしたいと、御聖霊に押されてそうなってゆくような説教です。


通訳者である江口 涼先生より(16年間ヒルソングに所属し、今年からヒルソング・東京開拓)

 1.教会は耐えるところではなく、楽しむところです。

今回の研修では、教会は家族ですから耐えるところでなく、楽しむところですから、めいっぱい楽しんで欲しいです。もし分からないことがあれば、再度、ヒルソングに来てください。本質的なことは変りませんから。

2.花開いているリーダーシップの姿、そしてボランティアの方やスタッフや牧師たちなど、とにかく人を見て欲しいです。

3.牧師たちの語られる言葉の内容は、行動に裏打ちされているので、そのことを踏まえて欲しいです。そして実践的なものを持ち帰って頂けますように。


 研修ツアー代表 松矢龍造牧師より

今回のビジョン・ツアーで、少なくてもヒルソングの7つの特徴を受け留めることを目標にして欲しいと、あらかじめ確認しました。これは今年の8月に寸座に来られた何人かのヒルソングの牧師達に確認して、それでよろしいと言われたポイントでもあります。

1、天国文化を形成している姿

2、自然に見えるリーダー養成と世代交代の悩みのない姿

3、新しい讃美を創造し続けている姿

4、主任牧師達の説教力

5、神様からのビジョンによって動かされる姿

6、ご聖霊の油注ぎを受けている姿

7、全世界の教会を祝福する為に存在している姿


夕食後に、その場所で、参加者の自己紹介と、今回の研修ツアーで、各自研修したい内容を語る時を持ちました。すると招待して下さったジョン牧師夫妻から、聖餐式をしましょうと言われて、聖餐式を実施して、全員が手をつないで輪になって祈りました。そして今回の研修の中で、油注ぎの祈りをする機会を設けることをお伝えしました。



二、(参考)ご聖霊の油注ぎと、按手祈祷に関する聖書的な根拠

この内容は、帰国後に、このまとめをしている中で記した内容です。


1、油注ぎという言葉が直接出てくる聖書箇所

  ヨハネの手紙一2章27節

「しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」

この教えられることが、ヨハネによる福音書14章26節では、ご聖霊としています。

  「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」


ですから、この二つの聖書箇所から、御聖霊の油注ぎという言葉が、聖書において使用されていることが分かります。ここでの、ご聖霊の油注ぎは、真理の教えと言う面がありますが、さらにご聖霊の多様な恵みは、任職、派遣、賜物などとしてもあらわれると考えることが、他の聖書の中に見られます。

 

  2、御聖霊の油注ぎは、按手の祈りを通して、与えられるということ

 

任職に関しては、使徒言行録の執事の任職時に手を置いて祈ったことが記されています。使徒言行録6章6節「使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。」派遣に関しても、手をおいたとあります。使徒言行録13章3節

「そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。」

   さらにご聖霊の賜物に関しては、テモテへの手紙二1章6節で、手を置いて祈ったことが記されています。「そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。」


ですから、ご聖霊の油注ぎは、すなわち様々な賜物と恵みは、按手の祈りを通して、与えられることがあることが聖書で確認することができます。



三、主の道を用意するリーダーシップ


 ヒルソング教会では、教会の玄関にレッドカーペットを敷いて、主の家に戻って来た人たちを、どの人も主にあって尊い存在として迎え入れていことがあった。私たちは、その使者である。主の道を用意して備えよとマルコによる福音書1章2~4節にある。「預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」またルカによる福音書1章17節にもある。「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」

 人々が主と出会うために、レッドカーペットを用意しておくように、迎え入れる必要がある。高貴な人迎えるために道備えをするように、霊的な道を、人々を招く為に用意する。人々は、心の準備が必要である。恐れや混乱などが人々の心にあると、イエス様を迎えることは困難である。

 その人の状況を知る。神様は、どんな人とも会う準備が出来ておられるが、私たちには備えが必要である。当時のユダヤ人は、貧しい人、罪人、女性、取税人には、救いが備えられていないと考えていた。ルカによる福音書は、どう人のものかが考えられている。レッドカーペットを歩く人たちは普通VIPである。しかし神の国は、どんな人も歩けるのである。教会は、あらゆる人たちのものである。

 神様の方は出会う準備があるのに、私たちが妨げていないか。使徒言行録15章19節に「それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。」とある。異邦人が神様と出会うことを難しくしてはならない。ユダヤ人だけに求められるが、異邦人には必要のないものがある。

それでは、どうしたら、スムーズになれるか。


Ⅰ、魅力的な信仰。

  イエス様の示される信仰は、人々に非常に魅力的なものであった。だから人々は、多くついていった。取税人、売春婦、兵士にも魅力的であった。他の人にとっても、私の信仰は、魅力的だろうか。あるクリスチャンの信仰は、律法的で否定的である。他の人は、そのような信仰に惹きつけられるであろうか。


Ⅱ、そのままの、あなたで来てくださいという文化。

  反対にマスクを付けて来てください、すなわち本当の自分を隠して来てください、正しくなったら来てくださいというものなら、どうであうか。ありのままの文化とは、人々に恵みを与える文化である。ローマの信徒への手紙12章9節「愛には偽りがあってはなりません。」とある。神様のやさしさが、人々を悔い改めに導く。人をさばいては、人々は惹きつけられない。神様の愛とやさしさが、人々を悔い改めに導く。


Ⅲ、惹きつける雰囲気。

  雰囲気は、あなたであり、私です。教会に初めての人が来た時、私を見て惹きつけられるだろうか。人々を委縮させる人なら、他の人は惹きつけられない。又その人が導く教会は、その人以上にならない。人々は、教会の人々との間にある雰囲気を見ている。


Ⅳ、「おかえり」という雰囲気。


  それぞれの家庭には、それぞれの雰囲気がある。ある人の家に入ると、いごこちがよい。しかしある人の家は、いごこちが悪い。教会は家であり、傷ついている人が帰って来る家である。心を開いて、自分の弱さを、さらけ出せる場所である。キリスト教の知識がなくても、いられる場所があるところである。

  ヒルソングには、メンバーシップがない。会員証がなくても、心で自分の家だと分かるのである。新しい人が教会に来る時、整えるのは、お客さんが来る為に家を備えるのと同じである。「来てくださって、有難うございます。」と迎える。


Ⅴ、一人一人のスペース。(匿名性)

  教会が初めてという人の中で、少し質問したい人がいる。人のボティランゲジを読み取る必要がある。どういう点で、私たちは、新しい人たちを迎え入れることで変えるべきか。めっちゃテンションが高いと心を狭くさせてしまうこともある。


Ⅵ、教会は楽しむところであって、苦しむところではない。

  楽しむは、世界的な言語である。人々は何を期待しているのか。教会の人々が楽しんでいるなら、それを人々は見る。神様がしたいと思われているスペースが、教会の計画以外に必要である。時間を取る。隙間を取る。楽しむための時間が必要である。教会に行けばよかったと思われる空間が必要である。


Ⅶ、分かりやすさ。

  イエス様は、大工であった。けれど大工そのものの話をしなかった。羊飼い、農園、植物のたとえをなさった。聴衆を見て、分かりやすく話された。イエス様は公生涯に入る前に、30年間、人々の生活を見てこられた。

  スポーツ、ニュース、音楽、文化、政治、わたしたちは、どれほど知識を持っているか。人々に分からないことは、届かない。どんな服装だろうか。ギャップはないか。付けている物、話す言葉に。


Ⅷ、「障害」を取り除く。

  教会は、入りやすいシステムになっているか。人が主の道を行く為に、備えが必要である。イエス様の十字架の死の後に、神殿の垂れ幕が、上から下に裂けた。隔てが取り除かれたのである。そして至聖所に自由に入れるようになった。そこなに至るまでには三重のゲートがあった。城壁のゲート、聖所のゲート、至聖所のゲートの三重の障害があった。しかし神様の方から、隔てが、キリストによって無くなった。ならば人は、障害を置いてはならない。主の道を備えよ。神様に出会う道に障害は、あってはならない。平らにせよ。どんな人も、イエス・キリストに出会うようにせよ。あたかもレッドカーペットを敷くように。主の道を真っすぐにしてゆきましょう。



質疑応答


 LGBTの人に対して、あらゆる人を招くと言われたなら、どのように対処するのか。

 

  人々がイエス様に救われることに比べたなら、LGBTのことは小さなことである。この質問であるLGBTのことを、大きな問題にしすぎである。彼らに聞くことは一つである。イエス様を知り信じますかである。この後は、個人的な会話である。

 

 同性愛者が結婚式を挙げて欲しいと来たらどう対応するか。


  第一に大切なことは、御言葉であり、永遠の真理は何かである。第二に大切なことは、世界であり、変わってゆく世界であることを考慮することである。第三に大切なことは、人々の重荷を探ることである。リーダーシップを取る人は模範となる必要があるが、けれど、どんな人も大切なことは、イエス様を信じることであり、救いが必要であるということである。イエス様に出会う前に完璧である必要はない。信じた後のことである。LGBTだけを特別なこととして扱ってはならないこと。教会は歴史の中で、様々な諸問題に対処して来た。


四、人々に厳しい会話をするリーダーシップ


 講師のクリシャン師は、スリランカからオーストラリアの来た人であり、オーストリア西部の街パース・ヒルソング教会を建て上げた牧師である。彼は理論だけでなくゼロから実践的に建てあげる人である。


 時に、御国の建設において、人々に厳しい会話が必要になる時があり、その動機や行動や心に、何かを言われなければならない時がある。今あるところから連れ出す為である。

ドイツ語で「厳しい会話」という意味は、まさに「今ある所から連れ出す」という意味がある。箴言27章6節「愛する人の与える傷は忠実さのしるし、憎む人は数多くの接吻を与える。」リーダーシップは、友達でありたい。厳しい言葉を言う時も、そうでありたい。建設的に厳しい話をするのである。


Ⅰ、相手が愛されていることが受け留められ理解されている状態で話す。

  そうでないなら、厳しい会話は最悪となる。人々は、どれだけ自分のことが顧みられているか分かるまで、話を聞こうとしない。マルコによる福音書10章に金持ちの青年とイエス様の会話が出ているが、21節で、イエス様は「彼を見つめ、慈しんで言われた」となっている。


Ⅱ、相手の意図について出来るだけ良い方に考える。

  たとえばミーティングに遅れて来たとする。その際に敬意がないのかなと思うのではなく、相手の意図を良い方に考える。家族のことで遅れたのかもしれない。交通渋滞で遅れたのかもしれない。イエス様は、全ての意図をご存知だけでなく、良い意図で語られた。あのザアカイとの場面でも、ルカによる福音書19章で、ザアカイに食事と食事をしようと言われた。食事をするとは、受け入れる象徴的、仲介的な方法であった。人々は、最悪のことを考えて木の上のザアカイを見ていたが、イエス様は違っていた。


Ⅲ、先ず質問する。

  その人の人生や生活の中で、何を行っているか知る必要がある。始めに遅刻することを言うのではなく、「大丈夫」と語り掛ける。「どうしたの」ではなく、「何があったの」と聞く。そうすると会話の中身は違ってくる。

マタイによる福音書16章13節「イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、『人々は、人の子のことを何者だと言っているか』とお尋ねになった。」

 イエス様は、人の子を誰だと言っているのかと質問した。また「あなたがたは誰と言うのか」とも質問された。神様からの啓示の中で聞いたのである。


Ⅳ、高い道を選ぶ。

  悪口を言われたら、悪口を返すのは低い道を行くことである。厳しいことを言う時は、高い道を選ぶ。最終的には、どんな状態で出たいのか。自分の権威が高くなることを求めるなら低い道となる。相手のことを最大に思い、どうやったら前進できるのか、それが高い道である。私は勝ちたい気持ちになりやすい。リーダーとして、それは何の為に勝つことなのか。自分が高められる為なのか、マタイによる福音書5章43~45節には、天の父は、正しい人にも、正しくない人にも太陽や雨を与えられるとある。彼らを祝福することや、敵の為に祈る使命がある。ならばチームの人たちを大切にする必要がある。高い道を選らべ。問題を持っていても愛する。神様が状況を変えてくださることを祈りつつ。


Ⅴ、自分の人生で神様に語られたことを話す。

  イエス様は、ルカによる福音書4章でイザヤ書を引用しながら、主の御霊がおられるので、この御言葉が私に実現したと語られた。自分に語り掛けられた御言葉から、人々を力づける。たとえば夫と妻の間に問題を持つ人に、敵を愛し迫害する者の為に祈りなさいと語られて自分が対処してきた話をその夫婦にする。すると互いの為に祈り、赦し、愛し、相手の為に語り合うことに繋がってゆく。

  さらに結婚前にセックスをしてはならないと言う場面では、誘惑が私にもかつてあった。今の妻との間に境界線を引いた。それは自分に語り掛けられた言葉を、他の人が私に語ってくれたことがあった、そのことが助けとなった。ヨハネによる福音書13章14節「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」


Ⅵ、愛と召し・使命を強調する。

  厳しいことを言うことを通して、関係が良くなってゆく。それがその会話が良かったのかの試金石となる。さらに神との関係が、その人にとって深くなったか。厳しい会話をした時、関係が修復されることが、良い目標となる。子どもに厳しいことを言った後、ハグする。あなたのことを愛していることを伝える為である。

  復活したイエス様は、岸で既に魚を焼いて待っておられたが、ガリラヤで漁をしてきた弟子たちに魚を持って来なさいとあえて言われた。自分を三度否んだペトロと共に歩いて、「あなたは私をアガペーの愛で愛するか」と言われた。ペトロは、神様から受けた愛がなければ、愛せません。自分の力ではなく、主からの愛を頂いて愛する。イエス様は、ペトロのプライドを問題にしている。誰よりもというペトロのプライドは、もうこの時なくなっていた。ペトロは、受けた愛で愛するという友だちの愛を意味するフィレオ―でしか愛せないと答えている。

  イエス様は、その後、使命と目的へと導かれた。愛と召し・使命を強調された。


結語

  神様は、生まれる前から、私たちに使命を与えておられる。



質疑応答


Ⅰ、関係作りが先ず大切であるということを更に教えてください。

  相手のことを理解してから、厳しいことをいうプロセスが大切である。また聖霊なる神様が、その時に何を言って欲しいか示して下さる。足りないことを指摘しようと思っていたが、聖霊なる神様に祈ると、「励ましなさい」「良い点を伝えなさい」と言われた。

  主任牧師のブライアンは、他の教会からヒルソング教会のことを悪く言われた時があった。しかし悪口を言われても、他の教会について悪口を言わない。むしろ他の教会の持っている良い点を牧師達との会話で語っている。そのような文化をヒルソングの教会の中で形成した。他の教会を敬うのである。


Ⅱ、愛を伝える究極的な方法は。

  その人の為に先ず祈る。次に、その人の召しが明確になるように励ます。そして良い点を探して伝える。そのうえで改善点を話す。ご聖霊のアジェンダ・順序は、愛と祝福が意図となって伝えるべきである。厳しい会話をする前に、愛が必要である。祈りながら、神様から頂くことを大切にする。ご聖霊様にもっと聴くべきである。


Ⅲ、皆さんのようになりたいが、今からやっておくべきことは何か。

  他の人のような人になる為に、あなたが召されたのではない。あなただけの姿がある。さらに言えば、良いリーダーシップの出来る環境に自分を置くこと。


Ⅳ、リーダーとして、ビジョンを持ち、リスクを恐れず、時に愛をもって厳しいことを言うといのは、大変良い流れでセミナーを受けて感謝しています。さて過去において、神様から、そのままで愛された体験や、愛を持って厳しいことを言って頂いた経験があり、未来においては、神様に祈ってご聖霊の指示に従うことが良いです。けれど過去において深い傷が心にある人は、厳しいことを言われると、厳しいことを返してくるので、大変難しいと思います。しかしこのような人が回復するなら、最も愛を持って厳しいことを語れる人になると思います。このような心に深い傷を負っている人たちに対するアプローチの在り方をヒルソングはお持ちと思います。それを教えてください。

  祈りは、答えの一つ。思考のトラウマに対する心理療法士と共にチームで取り組む。メンターや、ネットワークを築きながら取り組む。


結語

 ヒルソングは、世界中の地域教会を励ます為にあります。


五、ヒルソングに学ぶ「教会の確信と自信」

アンディ・ホッパー師の講義(2022.8)

 福音書に何度か、「来て見てください」とあります。たとえば、ヨハネによる福音書1章45~46節に、ピリポが、ナタナエルに対して、全てのことを説明せずに、「来て、見て」と言っています。「フィリポはナタナエルに出会って言った。『わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。』

するとナタナエルが、『ナザレから何か良いものが出るだろうか』と言ったので、フィリポは、『来て、見なさい』と言った。ピリポは、個人的に、イエス様出会って、イエス様のことを、伝えずにはいられませんでした。これは教会が社会に向けて言うことでもあります。 

さらにヨハネによる福音書4章28~30節では、サマリアの女性が、「来て見て下さい」と、町の人々に言っています。「来て見て」。世の救い主を知っている人が、他の人に伝える言葉です。「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。『さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。』人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。」


 今回、伝道について、話して欲しいと言われました。教会は、何か、今までのものに、イベントを加えようとします。ヒルソングにとって、伝道とは何かと問われたなら、色々なイベントをしていますが、それが中心ではありません。むしろ教会の姿勢です。「来て、見てください」です。町の人々に、ヒルソングのコミュニティを体験して欲しいのです。

 注目して欲しいという言葉は英語では「remarkable」。辞書では、「並外れている」とあります。教会に、注目すべき、並外れているものがあれば、どれだけ教会が、素晴らしいと言うよりも、「来て、見て」ということが、自然に話せます。たとえば、あるレストランの食事が、とてもおいしないなら、「とにかく、美味しいから、来て食べてみて」と自然な会話となります。教会に来たら、このコニュニティの価値を、見い出すに違いないと思って誘えます。

 もし教会に来て欲しいと思わない何かがあると、教会に誘いません。自分自身の教会に自信をもって「来て見てください」と言える。その為には、どうしたらよいのでしょうか。教会が大きくなければとか、プロフェショナルとかというよりも、自信を持って、ここに来てくださいと言えることです。イエス様のことも、ご聖霊のことも、良いものです。でも、この教会コミュニティに、自信を持って「来て見てください」と言えるでしょうか。


本論

Ⅰ、コミュニティに対する自信

 歓迎してもらえる。来てくれてうれしいと迎える自信がある。

1. 誰も、来てくれたことを認めもらえず、また歓迎してくれないなら、居心地が悪いものになってしまいます。どのように来会者に対して、接しているでしょうか。初めて教会に来たときに、「あなたは牧師になりませんか」とは言わないでしょう。来会者がびびってしまわない環境をつくります。

2. 親しみやすい雰囲気をつくります。その為には先ず、クリスチャン用語でせめません。一般的な言葉や、一般的な話題から、たとえばスポーツのことや、子どものことなど、教会の人も、普通だけれど、もっと知ってみたいと思われることです。

3. さばかないことです。恐れをもたれたり、何か注意されるのではないかと、思われたりしないことです。私たちが、キリストのようになれば、沢山の人々を迎えることが出来ます。教会のコミュニティが、安全な場所だと思ってもらえることが大切です。


Ⅱ、雰囲気に関する自信

  教会のコミニュニティに行くと、希望を見出せる。信仰がある。命がある。愛がある。

 ヨハネによる福音書10章10節「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」イエス様は、命を豊かに与えられる為に来られました。皆さんの教会に命があるでしょうか。命のあるところに、希望があります。多くの人々には、希望がただよう場所が必要です。

  今の人生以上のものが、教会ある。希望を知らなかったのに、希望のある生き方があることを、教会に見出せることが必要です。人々は、ニードを持って教会を尋ねます。人々は、希望や命、人生の目的を探しています。生きるための理由を求めて来ています。皆さんの教会は、それが出来るのです。他の組織ではできないのです。教会を造られたイエス様に希望があります。

  その準備をしましょう。讃美し礼拝を捧げている時に、何かが起こる期待、神様と出会う期待、神様は、会いたいと思っておられます。これを妨げるものを、教会から除く準備をします。それは神様が、素晴らしいお方であると、受け留められるようにするためです。


Ⅲ、キッズ・プログラムに対する自信

1. 子どもたちが、安全であること。安全なボランティアを選びます。保護者は子どもが安全だと思っている時、神様に思いが集中できるようになります。

2. 子どもが楽しめる。たとえば、トランポリンなど、子どもが、その場所に早く行きたい、ずっといたいと思える所にすることです。

3. リーダーが、個人的に、子どもたちと関わる。キッズ・リーダーは重要です。子どもたちの信仰のリーダーとして、またモデルとなります。子どもたちは、神様が、どう

いうお方であるかを、その人達を通して見ています。

4. 子どもたち自身で、神様に出会うことを大切にして欲しいです。

5. 子どもたちの為に投資してください。アメリカの調査会社によれば、クリスチャンのうち、94%は、18歳になるまでに、イエス様に従うと決心していると言います。私たちは、残りの6%に、教会を投入し、残ったものを、子ども注ぐことが多いのではないでしょうか。

Ⅳ、讃美に対する自信

 宇宙を創造したお方を讃美することは、素晴らしいです。それは体験となります。天が地に触れることを、かいま見る時があります。距離が縮まって、天の叫び声が聞こえます。

 讃美を通して、天と地が近くなります。地上にいながら、天を味わっている気がします。

 天の秩序が、地でかいま見せる、異世界にいるように思えるのが讃美です。全ての歌詞が、心から歌われているなら、未信者と共に、天を近くに感ずる事が出来ます。未信者を招いた時、その確信があるでしょうか。機材や楽器というより、讃美の姿勢が大切です。10人の心からの讃美であれば、一万人の讃美と等しい時があります。パスター・ブライアンの奥様のボビー師が、「主キリストを高める讃美」について、次のように言われています。

ました。

 「人の心を開き高める讃美、主の御言葉の準備をさせる讃美、聖霊様を引き付ける讃美、

 癒しと回復をもたらす讃美、要塞を砕くような讃美、天にエネルギーを注ぐような讃美、

 一致をもたらすような讃美、力を与えるような讃美、一致のないようなところに一致を

 つくるような讃美です。」

かっこのいいような今風の讃美でもなく、スタイルが、このようなものでないといけないというような讃美でもなく、人を生かす讃美が必要です。


Ⅴ、教えに対する自信

 皆さんの教会で、説教をどう感じているでしょうか。つまらない、自分にとって関係 が

 ない、混乱する、長すぎる、すぐ忘れてしまうなど。マルコによる福音書1章22節では、人々は、その教えに驚いたとあります。「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」またヨハネによる福音書6章68節では、あなたは、永遠の命の言葉を持っておられますとあります。「シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。』

  人々は、真理や希望に飢え渇いています。目的や健康を求めています。私の教会に来 

 て見てください。彼らは満たされているでしょうか。もう一度来て、もっと知りたいと思えているでしょうか。あの人の、あの言葉が心にも届いた。そのようになっているでしょうか。皆さんの教会の教えを、どのように言うでしょうか。自分の物語の一部になったように言うでしょうか。牧師も、同じ問題をかかえているのだと思えたでしょうか。政党のことより、天国との関係を感じたでしょうか。知識だけだと思われていないでしょうか。


Ⅵ、聖霊様に対する自信

 聖霊様でしか出来ないことをしてくださる自信。教会は、ご聖霊を通して造られました。

 ご聖霊様は、私たちが、どこに向かうべきかのしるしです。新しい人生は、聖霊様から  

 来ます。霊的な変化は、御聖霊様から来ます。霊的な変化は、聖霊様によります。リマ

ーカブル・並外れている教会は、ご聖霊様の働きがなされている教会です。癒しが起こり、壊れたものが建て直される。正しい方向に向かい、自然には変わらないようなことが、超自然的に変えられ、修復される。それらの奇跡は、ご聖霊様が、コミュニティになしてくださる時、御業が起きています。


結語

 教会の人々が、「来て見て」と言える、そのような人々が増える教会とさらになりますように。社会の中で、もっと人を引き付けるところとなりますように。私の人生を変えた方がおられるところに、来て見てよ。そのような教会にさらになれますように。

 ボビー師は、教会に関して次のように言われています。「教会は、社会において、最も人々を引き付けるものとして造られました。魅力的で温かくて、人々と密接になる関係となるところです。だから地球上の息子たちと娘たちが、立ち止まって、引き入れられてしまうような、そんなところなのです。」

 多くの人々が、教会を覗きに来られます。それは誰かが「来て見てよ」と言っているからです。リマーカブルな教会となることは、主にあって誰もが造れるものです。



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