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  • 執筆者の写真CPC K

家族関係・講座配信 2022.6.23 シリーズ「聖書に学ぶ親の道」

『子どもの懲らしめに関する、聖書的でないあり方』

前回から、「家族関係講座配信」という名称としてネット配信をしています。礼拝堂から配信していますが、配信の際に、礼拝堂で直接聴かれることも可能です。礼拝堂に来て、講座を聞かれ、その後、小グループの交わりを、皆さんですることも、可能です。

シリーズで「聖書に学ぶ親の道」を受け留めています。今回は「子どもの懲らしめに関する、聖書的でないあり方」というテーマです。

子どもの成長を願って、愛をもって懲らしめを与える際に、創造主なる神様の方法として、聖書で教えられているものとは、異なるものがいくつかあります。今日は、そのことを、ご一緒に受け留めてまいりましょう。

1、 子どもに大声を上げる

一、このあり方は、だいたいにおいて、子どもから即座に願わしい反応を引き出すことができます。しかし大声で懲らしめることが習慣化されると、子どもは慣れてきて、何とも思わなくなってゆきます。大声を上げることは、子どもを、きちんと教育するのではなく、その一時だけ、コントロールするに過ぎません。

親がいなくなると、子どもはまた、同じ愚かさを繰り返します。旧約聖書、箴言 26 章 11 節

「犬が自分の吐いたものに戻るように、愚か者は自分の愚かさを繰り返す。」二、 大声を出すのは、親の弱さのしるしです。

大声を出すのは、知恵あることではなく、愚かさのしるしとも言えます。親が状況を見て、子どもをどうすることも出来ず、お手上げ状態であるという姿を明らかにするものです。もちろ ん、遠くから、子どもの危険を伝える時は、大声で伝える必要があります。今、とりあげている状況は、平時でありすぐ近くにいる場合のことです。

旧約聖書、コヘレトの言葉 9 章 17 節「支配者が愚か者の中で叫ぶよりは、賢者の静かに説く言葉が聞かれるものだ。」

三、 子どもに大声を出す親は、すぐに尊敬を失ってしまいます。

大声を出す時は、しばしば怒りの感情と共に、子どもに対する愛情より、親の感情のはけ口となり、効果がないだけでなく、尊敬を失ってしまいます。大声を出す時は、怒りの感情が込められている場合が多いです。大声を出すことは、子どもの悪い振る舞いに対して、神様が命じている方法ではありません。旧約聖書、箴言 16 章 32 節「忍耐は力の強さにまさる。自制の力は町を占領するにまさる。」

2、 子どもを隔離する。

聖書では、子どもを懲らしめるあり方として、部屋に閉じ込める方法を教えていないように思います。一時的であれ、隔離され部屋に閉じ込められるとき、子どもは親から存在そのものを拒否されているという感情を抱くことになりがちです。さらにそれは、天の父なる神様の代理人である、親たちの行動として、ふさわしくないと言えます。創造主なる神様は、ご自分の子どもたちを懲らしめますが、決して、神様の臨在と守りから隔離して、追放することをなさいません。

イザヤ書 43 章 2 節と 5 節「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」「恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」

創造主なる神様は、私達人間の言動が間違っているなら、懲らしめられますが、それでもな お、存在の喜びを失われることがありません。ですから、堕落した人類に対して、神の独り子なるイエス様をお遣わしになられました。

イザヤ書 43 章 4 節「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している。」ヨハネの手紙一 4 章 9 節 10 節「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」3、 子どもの権利をはく奪する。

懲らしめのあり方として、最も普通に行われやすいのが、この方法です。しかしこれも聖書的と言えない面があります。子どもから権利を奪うと、かえって、懲らしめを長引かせることに繋がります。聖書では、懲らしめは、短く、適切に行われることを勧めています。

ヘブライ人への手紙 12 章 11 節「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」

箴言 29 章 15 節「懲らしめの杖は知恵を与える。放任されていた子は母の恥となる。」

子どもの権利をはく奪することは、普通、家族の中に、喜ばしくないことをもたらすことになります。一つは、子どもが、禁じられたことを行っていないか、親は家庭の中で、警察官のように警戒しなければなりません。

そしてもう一つは、多くの場合、子どもの側で、なんとか気づかれずに、それを行うことができないかという余計な誘惑を、子どもの前に置くことになります。親は、ずっと警戒し続けると疲れてきますから、子どもは、さらに誘惑にかられます。

権利をはく奪することは、最初は簡単で良い方法のように思えますが、続けていくと、最期的には、損失をもたらすものになりやすいです。この権利をはく奪するあり方は、子どもの悪い行いを取り扱うための、神様の方法とは言えないのではないでしょうか。

4、 一人の子どもの故に、他の子どもを罰する。

もし親が、複数いる子どもたちに対して、「今日、もしおまえたちの中で、一人でも悪いことをしたら、明日の動物園行きは中止だからな」。強い警告ですが、一人が悪いことをしたなら、その子どものみの懲らしめがなされることが必要です。他の子どもにまで、罰や懲らしめを与えることは、かえって子どもたちに、他の子どもへの憎悪を生んでしまいます。賢明な親は、悪いことをした子どもを、従順な子どもとは、別のところで、懲らしめます。

箴言 20 章 26 節「賢い王は神に逆らう者を選び出し、彼らの上に車輪を引き回す。」悪いことをしたなら、その者だけ、懲らしめを受けます。新約聖書ローマの信徒への手紙 13 章 3 節 4 節「実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。」

この場合は、悪をなした一人をだけを、不従順の故に懲らしめ、それから家族全員で、動物園に行けばよかったのではないでしょうか。

5、 行うつもりのない罰をちらつかせて脅す。

「お前が、もし今度そんなことをしたら、お前を殺してしまうから」。親は、二つの点で、子どもから信頼されるべきです。一つは、両親は本当のことを言う人であること。もう一つは、親は言ったことを本当に行う人であること。親は、子どもを懲らしめても、常に避難所であることに務めることが大切です。ヘブライ人への手紙 13 章 5 節「神御自身、『わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない』と言われました。」

見捨てられるかもしれないという恐怖は、決して愛を伝えることが出来ません。また神様の性質を伝えることにもなりません。親は、この世において、少なくとも、わが家だけは、神様の公平が全うされる場所であり、また安心な場所であるあるとことを、示していくことが大切です。

6、子どもが、親の言うことに従うまで、がみがみ言い続ける。

がみがみ言い続けることによって、その時は、言うことをきかせることかできるでしょう。しかし、これは子どもにとって、正しい振る舞いを身に着けることにはつながりません。また、がみがみ言い続けると、家庭の中が、気持ちの良い場所でなくなります。一度、二度言っても聞かないなら、懲らしめが必要です。箴言 21 章 19 節「いさかい好きで怒りっぽい妻といるよりは、荒れ野に座っている方がよい。」

7.物でつる。

子どもを、何か物でつるなら、たいてい期待して結果を得ることが出来ます。しかしそれは一時的なものであり、重大な副作用をもたらします。物がないなら、やらなくなります。また自己中心的な子どもになることを勧めるようものとなってしまいます。コヘレトの言葉 7 章 7 節「賢者さえも、虐げられれば狂い、賄賂をもらえば理性を失う。」

8、腕力を用いる。

言う事を聞かない子どもを、無理矢理従わせるために、腕力はよく用いられる方法です。力でねじふせる。これは子どもの肉体が大きくなったら、無理です。むしろスパンクで、ピシャリ と、杖で、懲らしめる方がよいです。子どもが、親の権威に従うことを身につけることは、他の権威に対して、そして神様の権威に従うことに繋がってゆきます。

9、仕事を割り当てる懲らしめ。

仕事は、本来、良いものです。罰や懲らしめではありません。もちろん堕落した人類にとっ て、労働や勉学には、苦しみが伴うようになりました。しかしそれでも、労働は良いものであり神聖なものです。懲らしめとして、仕事を割り当てることは、懲らしめとして、ふさわしくありません。自発的に行っていたお手伝が、苦痛で、やらせに変わってしまいます。私たちは、仕事のそのものは、罰ではないということを伝える必要があります。

10、数を数えるあり方。

「10 数えるまで、行いなさい。」すると 9 までは良いと思われがちです。子どもには、すぐに従うこと、そして従順がもたらす良い結果を生み出すとこを伝えるべきです。もちろん、スケジュール管理してながら予告として、何時からと備えさせることと、「いいですか、10 数えるうちにしない」というのは、別のことです。親が、遅らせることを許可せずに、子どもは即座に止めて、親の指示にただちに従うことの方が大切です。将来、その子どもが、10 数えない権威者に出会ったら、いったいどうなるでしょうか。

言うことは一度、二度。その一度、二度を聞かなければ、子どもは不従順がもたらす結果、罰と懲らしめを受けることを学ぶ必要があります。聖書的でない懲らしめは、効果がないばかり か、悪しきことを生んでしまいます。そして、祈って、ご聖霊なる神様の力を頂けなければ、思っていても、実行できません。聖書的でないあり方を止め、聖書的なあり方に、さらに近づけることが出来ますように。お祈り致します。

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